浜口梧陵  「稲村の火」と「広川堤防」 | 「みの」のつぶやき

浜口梧陵  「稲村の火」と「広川堤防」

「紀伊日ノ御碕灯台」を見た後、最後の棚田の「あらぎ島」へ向かっていた。

広川に差し掛かった時、路側に「濱口梧陵の墓」の表示板が目に入る。

あっ!「稲村の火」の「悟陵翁の墓」だと、慌ててUターンし路側に車を止めた。

 

◇濱口悟陵の墓地を訪問した

▽墓地の説明板

▽墓地入り口

▽立派な門と塀  門は閉じられていた

▽翁の墓石

 

◎「濱口悟良翁」について     (「和歌山県ふるさとアーカイブ」から転載)

 

文政3年(1820)、広村(現:広川町)に生まれる。天保2年(1831)、浜口家の本家にあたる千葉県銚子のヤマサ醤油店浜口儀兵衛の養子となり、醸造と販売の実務を行う。

また、家業に専念するかたわら、三宅良斎、佐久間象山などの先覚者に学び、国の将来には人材の育成が必要と、崇義団をつくり稽古場を開設して青少年の教育に力を注ぐ。この私塾は後に「耐久社」と呼ばれ、変遷して現在の耐久中学校となっている。

 

寛永6年(1853)、家督を相続して儀兵衛を襲名。梧陵は号であるが、後年は通称となっている。安政元年(1854)、広村に激震とともに大津波が発生。梧陵は、避難の道しるべとして自家の稲むらに火を放ち、多くの村人を救う。この話は、現在に語り伝えられている「稲むらの火」である。

また、私財を投じて家を建てるなど被災者救護に全力をあげるとともに、村の将来を考え、堅固な防波堤を築造する。英国の文豪ラフカディオ・ハーンは、梧陵を「A LIVING GOD」(生ける神)として広く内外に紹介、多くの人びとに深い感銘を与えた。

 

明治元年(1868)、藩政改革に勘定奉行として抜てきされ、その後も和歌山藩政にたずさわる。明治12年(1879)、県会設置とともに初代議長に就任、その後国会開設に備え木国同友会を組織する。梧陵は、新しい知識と見聞を広めるためアメリカに渡ったが、明治18年(1885)、ニューヨークにて64歳で亡くなった。

 

◇稲村の火の館(濱口梧陵祈念館・津波防災教育センター)を見学

展示物と津波情報展示をみて 「3D映像稲村の火」を鑑賞した

 

▽「祈念館」入り口 背後の3階建てビルが「津波防災教育センター」

▽安政南海地震津波の図

▽堤防の築堤作業の模型

▽地震計  

 

◇⑧広村堤防を見学

                             百世の安堵(広川町)から

安政元年(1854)の津波を受け、濱口梧陵が濱口吉右衛門らの協力を得て築いた

長さ約600m、基底の幅約20m、高さ約5mの堤防で、国の史跡に指定されている。

 

安政2年(1855)2月着工し、安政5年(1858)12月完成。沖の突堤、海沿いの石堤と

合わせ、多重防御のシステムを構築している。梧陵は1,572 両もの私財を投じ、

延べ56,736もの村人を日払いで雇用することで、津波の被害で荒廃した村から人々

の離散を食い止めた。

 

昭和21年(1946)の昭和南海地震では、「是れ此の築堤の工を起こして住民百世の

安堵を図る所以なり」という梧陵が残した言葉どおり、市街地への津波の流入を防いだ。

 

▽現地の説明板                     

▽堤防 左側が住宅側 右側が海側

▽住宅側にぎっしり植樹されている

▽植樹側の住宅

▽海側の松の木

▽悟陵ら先人への「感恩碑」

 

思いがけず「濱口梧陵祈念館」や「広川堤防」を見学でき感激

後は棚田で有名「なあらぎ島」を目指し高野山方面へ車を走らせる(続く)