※ 先進国で独り負け…日本の大学、文科系の「知的劣化」が止まらない | 受験クリニック 学道舎

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5/14(木) 11:01配信現代ビジネス

論文の質が落ちている
 内田樹氏の著作『生きづらさについて考える』は、現下日本と世界が抱える問題を政治、思想、教育など多方面から論じた優れた論集だ。評者には、日本の大学院に関する内田氏の考察が興味深かった。

 〈人口当たりの修士・博士号取得者が主要国で日本だけ減っていることが文科省の調査で判明した。これまでも海外メディアからは日本の大学の学術的生産力の低下が指摘されてきたが、大学院進学者数でも、先進国の中でただ一国の「独り負け」で、日本の知的劣化に歯止めがかからなくなってきている。

 人口当たりの学位取得者数を2014~2017年度と2008年度で比べると、修士号は、中国が1.55倍、フランスが1・27倍。日本だけが0・97倍と微減。博士号は、韓国が1・46倍、イギリスが1・23倍。日本だけが0・90倍と数を減らした〉

 評者として気になるのは、文科系の論文の質だ。大学院は修士課程が2年で博士課程が3年だ。評者が大学院で学んだ時代、大多数の学生が2年もしくは1年留年して3年で修士論文を仕上げ、修士号を取得した。博士課程に上がっても、3年で論文を仕上げる人はほとんどいなかった。

 博士課程の単位を取得して退学し、大学の教員になる例が多かった。教授でも文科系では博士号を持っている人の方が少なかった。研究職に就いてから20~30年後に博士論文を提出して学位を得る論文博士がときどきいたが、そういう学者は少数派だった。

 21世紀に入って博士を量産し始めた結果、現在では課程博士(コースドクター)が主流となった。しかし、文科系の博士論文の内容は、率直に言って、評者が大学院生だった時代の修士論文になっている。修士論文がかつての卒業論文のレベルに低下している。文科系に限っていうならば、日本の大学院教育は深刻な問題を抱えている。

「貧乏シフト」の渦
 内田氏は大学院進学希望者が減っている現状についてこう考えている。

 〈さまざまな理由が指摘されているけれど、一言で言えば「大学院というところが暗く、いじけた場所になった」からである。若くて元気な人間なら、せっかくの青春をそんなところで過ごしたくはない。と書いておいてすぐに前言撤回するのも気が引けるが、実は大学院は昔から暗くて、いじけた場所だったのである。にもかかわらず学術的生産性は高かった。どうしてか。

 私が大学生の頃、大学院進学理由の筆頭は「就職したくない」だった。それまで学生運動をやったり、ヒッピー暮らしをしていた学生が、ある日いきなり髪の毛を七三に分けて、スーツを着て就活するというのは、傍から見るとずいぶん見苦しいものだった。「ああいうのは厭だな」と思った学生たちはとりあえず「大学院でモラトリアム」の道を選んだ。私もそうだった〉

 昔から大学院が暗くて、いじけた場所だったという認識には違和感を覚える。一部に研究者志望でいじけた人がいたことは確かだったが、評者が学んだ同志社大学大学院神学研究科は、研究者志望よりも牧師やキリスト教主義学校の聖書科教師の希望者の方がはるかに多かったので、将来の夢や希望を語りながら、真面目に研究をしている院生がほとんどだった。

 評者のように外交官試験を受けて小役人になるようなことを考えている院生は皆無だった。もっとも評者は、チェコ神学の研究を続けるために外交官になろうと思ったに過ぎない。人生の目的が神について知ることで、外交官も職業作家も、そのための手段に過ぎない。

 現在、評者が同志社大学の神学部と大学院で教えている学生たちも、神学の勉強を一生続けていくことができるという観点から就職活動を行っている。モラトリアムではなく、やりたいことが定まっている大学院生はいじけない。これは神学という極めて特殊な分野だから、そういう人たちが集まるのかもしれない。

 新自由主義が大学教育にも及ぶようになって大学院の劣化が進んだと内田氏は考える。

 〈バブルがはじけて、日本全体が貧乏くさくなってから話が変わった。「貧すれば鈍す」とはよく言ったもので、「金がない」という気分が横溢してくると、それまで鷹揚に金を配ってくれた連中がいきなり「無駄遣いをしているのは誰だ」と目をつり上げるようになる。

 「限りある資源を分配するのだ。生産性・有用性を数値的に格付けして、その査定に基づいて資源を傾斜配分すべきだ」と口々に言い出した。

 「数値的な格付けに基づく共有資源の傾斜配分」のことを私は「貧乏シフト」と呼ぶが、大学も「貧乏シフト」の渦に巻き込まれた。そして、それが致命的だった。

 というのは、格付けというのは「みんなができることを、他の人よりうまくできるかどうか」を競わせることだからである。「貧乏シフト」によって「誰もやっていないことを研究する自由」が大学から失われた。「誰もやっていない研究」は格付け不能だからである〉

 ちなみに神学はそもそも客観的、実証的な近代的学問の枠には収まらない。格付けができない。そもそも、キリスト教信仰を前提とする神学部は、政教分離原則の観点から国公立大学には存在しない。

 〈国立大学の独立行政法人化は21世紀の初めごろから日本社会を覆い尽くした怒濤のような「株式会社化」趨勢の中で決定された。

 「株式会社化」というのは、「すべての社会制度の中で株式会社が最も効率的な組織であるので、あらゆる社会制度は株式会社に準拠して制度改革されねばならない」というどこから出てきたか知れない怪しげな「信憑」のことである〉

 と内田氏は指摘するが、神学部のような非合理的な学部がある同志社のような学校は、原理的に株式会社化とは相性がよくないのだ。

 『週刊現代』2020年4月25日号より

佐藤 優(作家)