平成30年 10月21日


叔父のお葬式に出た。


生き方というか、家族に対する考え方というか、気持ちの整理がついたきっかけになったので、ここに記そうと思う。


叔父が死んで、お葬式があるとのメールが届いた。また、母が埼玉までの帰りの足がないとの内容。姉からである。


仕方ないというか、なんとなく、叔父さんに最後の挨拶はしないと失礼と感じ、自分の車で、群馬まで行った。


親戚に会うのは、6年振りぐらいだ。正直、2年半前に2度目の離婚をしてから、家族や親戚に会いたいというより、恥ずかしさや気まずさ、会うことが苦痛で避けている自分がいた。また、生活や職場でも、自分に自信が無く、仕事から逃げたくて、いつも下を向いて、ふて腐れていた。


叔父さんはいつも年賀状を欠かさず出してくれて、毎回「久しぶりに会いたいね」と書いてくれていた。会えば、何を話す訳ではないが、私は技術科の教員であり、叔父は、トヨタ自動車の製造に関わっていた事もあり、車の事をよく話したりしていた。表情が優しく、祖父にそっくりで当たりの柔らかな面倒見の良い叔父であった。


式場に入る前に、子供の頃の家族の写真があった。祖父や母、叔父さん達がにこやかに笑っている。叔父が生前好きだった野球の写真や選手として活躍していた風景がセピア色に写っていた。

叔母さんとの旅行や馴れ初めの写真は、見ているこちらが照れてしまうほど、はにかんだ表情で二人が写っていた。


式が始まって、パワーポイントでスライドショーが始まった。「オイオイ」とはじめは思った。しかし…


スライドの中には、母や姉弟、叔父さんの家族や、寡黙な叔父の生き様や晩年の闘病生活が記されていた。また、涙ながらに語る喪主である叔母さんのスピーチ。家族とのエピソード。そこから溢れて出してくる叔父さんに対する敬愛や親愛の表現は、心底感動した。羨ましくも思えた。涙が止まらなかった。


叔父さんと叔母さんは、3姉妹の娘を持ち、3番目の子は重度の障害で、20歳になっても寝たきりで、言葉も喋れず入院中。2人の娘は結婚して、下の娘家族は、一緒に暮らし、孫も中学生だ。更に、晩年には叔父である旦那は、進行性キンジストロフィーで入院し、肢体不自由になった。(ここ2年の年賀状は、舌でポイントを動かし、入力し印刷していたものであった。)叔母さんにしてみれば、孫は嬉しいだろうが、2つの病院を行き来する毎日、今ある家庭を切り盛りしなくてはならず、逃げだしても、自分の境遇を呪ってもいいはず。


そんな境遇でも、感謝や敬愛を最後に伝えていた。


バツ2の自分は、「苦労しても、変わらない愛や信頼、ましては尊敬や愛情なんて…」と考えていた。しかし…


出棺後、火葬を待つ間、食事が振舞われ、そこで色々な話を聞いた。叔父さんの闘病生活や叔母さんの凄い苦労など、聞いてびっくりするほどである。それでも、当の叔母さんは苦労として捉えておらず、生きていくためこれも生活であり、人生であり、家族としての絆の証と、うっすら目に涙を浮かべ、はにかみながら言っていた。


そんな中、母や叔母達、従兄弟達は自分がバツ2で落ちこんでいることを昨日の通夜で話していたらしい。さりげなく、自分を元気つけようと、母と叔母達が、色々と話しかけてきた。笑いながら、自分の子供達の事を話す同年代の従兄弟達もいた。


お節介だなと思いながらも、話を聞いているうちに、叔父や叔母の苦労に比べたら、自分の悩みは、なんて小さく、なんてちっぽけなものなんだと思えてきている自分がいた。


家族や親戚の力って偉大だ。スペインやイタリアでは、まず家族が大切という概念があるらしい。


今ならその意味は痛いほどわかる。職業柄、様々な人と関わっていたが、その人達や友人でさえ自分の悩みや考えをポジティブな方向に変えてくれた人はいなかった。それが、一変してしまった。家族って偉大で素晴らしい。色々な悩みや迷いが吹っ飛んだ。


面倒見の良い叔父は、落ち込んでる自分を見かねて、死してなお導いてくれたんだと思う。いやきっとそうだ。


以前ある住職が言っていた事を思い出した。お葬式とは、死んだ人が、生きている人を集めたり、引き合わせたりして、離れていたかも知れない、家族や友人の親交を深める大切な場所なんだと。


今回のお葬式は正にそれになった。


ありがとう叔父さん。そして叔母さん。


今更家族を作ろうってわけではないが、もう少しがんばってみようと思った。そして、今ある親戚や家族に感謝しながら、少しでも要らぬ心配を掛けないようにしていきたいと思った。