西日本の豪雨災害の被災地では、被災した家屋の建築診断がはじまっている頃だろうか。

被災地の建築診断では、建築士が家々を診断し、危険な建物には赤い紙が貼られて立ち入り禁止となり、要注意の建物には黄色、一応の安全が確認されれば緑の紙が貼られる。
 
7年前の東日本大震災の大津波で大破した私の家は早々に「赤紙」の危険判定された。立ち入り禁止とされてはいたが、私は時折、水没を免れた二階にある私の部屋の片付けをしたり、タンスに残された服を取りに来たりしていた。ある時には、住む人もいなくなった地域にたった一人で玄関の扉も一階の窓もぶち抜かれ、誰でも入り放題の家に泊まってみたこもがある。すべては自己責任での行動だった。
 
今日書くことは、2011年の4月の半ばから下旬のことだったと思う。
ある日の午後に当時避難先から被災した自宅に何か物を取りに行った時のことだ。
建築士と思われる男性が近所の住宅を見て回っていた。
 
すでに危険判定されていたが、建築士と思われる男は私の家も一応チェックしていた。
建築士と目を合わせると、見覚えのある顔だった。即座に名前を思い出せなかったが、中学時代の同級生だと分かった。
同級生の建築士は私の顔を見てから「お前んち、被災したのか」と明らかにニヤニヤしながら言った。ざまあみろ、とでも言わんかのように、私が被災したのを喜んでいるようだった。
私は腹わたが煮え繰り返る思いだったが、「ああ、そうだよ」とだけ言い残して彼を無視して危険判定の自宅に入っていった。
中学を卒業して以来26年ぶりの再会。それも未曾有の災害が起きた町で家を失った同級生に「大変だったな」とか「気の毒に」のひと言も言えない奴に私は背筋が凍りつく思いがした。
 
私は小学6年生の夏休みに引っ越してきた。その地域は地縁血縁が濃い閉鎖的で排他的な田舎だった。ひどい暴力を振るわれることはなかったが、私はずっとよそ者だった。中学の3年間は友だちもいない忍耐の時間。その環境を抜け出したくて私は町の外にある高校に行った。
建築士の同級生は、確か野球部のスズキだったなと後になって思い出した。彼は中学を出てから高専か私立の工業系の高校に進学したのだと思うが、私の記憶は曖昧だった。もとより同級生たちの進路に興味もなかった。
 
建築士となったスズキが今も同じ町内に住んでいるのかは知らないが、中学の学区の半分は津波に襲われており、彼の親戚や知り合いが津波の犠牲になっていても不思議ではない。スズキが仲良くしていた同級生の何人かは、私のように確実に家を失っているはずだ。ましてや、彼自身が建築士として被災地の惨状をつぶさに見てもいる。仲良くしたことはなかったが、スズキが被災した同級生の私に、大人のマナーとして慰めや見舞いの言葉ひとつ掛けられないことに愕然とした。せめて不謹慎なニヤニヤ顔を表に出さないことくらいはできなかったものか。
 
あの震災で「この人ヤバいな」と思う人が何人もいて、私は「サイコパス」に関心を持つようになった。テレビのコメンテーターとして出演している脳科学者の中野信子氏の新書を読んだ。一般人にも分かるように書いてあるが、納得させられるところが多々あった。近著では「ヒトは『いじめ』をやめられない」(小学館新書)と「シャーデンフロイデ 他人を引きずり下ろす快感」(幻冬舎新書)も読んだ。
いじめや他人を引きずり下ろすというのは、自分の所属する集団から異質な者を排除するということであって、集団を守ったと脳が快感として感じるのだそうだ。故にいじめはなくならないのだ。
20数年経ってもいじめが続いていたのだなとに認識させられた。
 
西日本豪雨災害、被災地の惨状を見ているうちにふとニヤニヤ顔の同級生のことを思い出してしまった。
今、被災地各地で被災された方のことをざまぁみろと思っている人がきっといることだろう。
私たち日本人には思想と良心の自由が憲法で保証されているから何を思うも自由だ。しかし、思っていても顔には出さずに「お気の毒に」くらいは言うことをお勧めする。それくらいの品性は持ち合わせていてもいいだろう。
だが、思っていることはついつい顔に出てしまうもの。あのニヤニヤ顔を私はきっと忘れないだろう。