この投稿では、自死について触れています。
思い出の品を持たせ別れを告げ、久しぶりに会ったカウンセラーに話して一区切り付けて。
…付けていたはずなのですが、毎日どこかで思い出す日々を過ごしていました。
そして、ある時ふと、生前会った時に違和感があったことを思い出しました。
いつも絶対に身なりを整えている子だったのに、その数か月前に会った時はそこまで手が回っていない様子だったな。
深読みし過ぎかもしれないけど、あの言葉が出てきていたのは既に考えにあったのでは?
気付いてもう少し関わっていたら。
学生時代、部活以外であまり助けになれなかった。
だから助けられるような人になりたい、そう思っていたのに、結局できなかった。
そう。自分の中で後悔が残っていました。
だけど、ご両親でも親族でもないのに、と、それが後悔だとは気づかず2か月ほど過ごしていました。
そんなある日、グループ講義に参加していたら、ある方が親御さんの死について話し、無理くりでなく、現在の自分に至るまでの道筋に別の解釈を選択できるようになっていく場面がありました。
私は、SNSでよく見かけるような、「そこにあなたのブロックがある」とか「魂のレベルが」とか、そういう助言や話が大嫌いです。
冷めてその投稿や発信者から離れます。
でも一切「ブロックが」とか「天が・魂が」とかいった話は一切ありませんでした。
ところで、その方は最近毎日楽しいと言っていました。
何でも、親御さんへの供養と思って親御さんが望んだように生きていたけど、自分が何を大事にするかという生き方を知って、生活が楽しくなったと。
確かに、数か月前はなんだか暗い(←失礼)印象だったのが、その話し方からも元気になっているのが伝わってきて、言及したくなるほどでした(そして言及した)。
それ自体は、なんかありがちな(←まじで失礼)展開だと思いましたが、ただただこういった自然な会話の中で、捉え方が自然に変わっていったことに、関心しました。
親御さんの病死自体は残念なこと。
でも、存命だったらきっと親御さんが望む姿を演じ続けていた(本人談)。
親にとっては、子の幸せが子に望む一番のことだから、(天国の親御さんとしては)自分の命は途絶えたけど我が子は今、楽しく日々をすごせるようになった。よかったよかったと大往生ですよ、と。
私は子がいないので親としての感覚そのものは分かりませんが、不自然のない腑に落ちる見方だと思いました。
捉え方の問題、とはよく聞く話です。
でも、自分事に感じなかった、いやそんな変わる?って思ってた、変わるとは思えないし、無理くり変えられるのも嫌だった。
だけどこれなら、と思って過去の後悔について口にすることにしました。
結局何もできなかった後悔についてを。