伊達政宗について3回にわたり紹介していきたいと思います!!
今回はその第一弾です!!!
長いと思いますが読んでみてください

伊達正宗の紹介
伊達政宗は、出羽国米沢城で生まれる。
天正5年(1577)年に元服する。
足利幕府より陸奥守護に任命された伊達家代々の伝統により、おじの石川昭光同様足利15代将軍足利義昭から「昭」の偏諱をもらいうけ「伊達昭宗」と名乗る予定であったが当時の将軍は京都を離れ、遠く備後に下向中であったためにそれは叶わず、先祖の名乗りである「政宗」を名乗ることとなった。

家督相続から摺上原の戦いまで
天正7年(1579年)には仙道の戦国大名で三春城主田村清顕の娘愛姫を正室とする。天正9年(1581年)、隣接する戦国大名・相馬氏への侵攻に15歳で初陣し、勝利を収める。
天正12年(1584年)に18歳で家督を相続し、伊達家17代を継承する。父・輝宗は41歳の働き盛りでもあり、政宗は当初、若年を理由に辞退を申し出たが、政宗の武将としての素質を見抜いていた輝宗の決意は固く、家督を相続することとなった。

大内定綱の没落を間近で見た二本松義継は和議を申し出、輝宗の取りなしにより5ヶ村のみを畠山領として安堵することになった。ところが輝宗が、所領安堵の件などの礼に来ていた義継を城門まで見送りに行った所を拉致される。政宗は事件の時、狩りに出かけていたが急遽戻って一行を追跡し、輝宗もろとも鉄砲を放って一人も残さず殺害したという。この事件は、輝宗が自分とともに義継を撃てと命じたとの説や追跡してきた政宗の軍勢がすでに鉄砲で武装していたことから、政宗の父殺しの陰謀だったとする説など発生原因も含めて諸説ある。
その後、初七日法要を済ますと輝宗の弔い合戦のため早くも二本松城を包囲し、二本松氏救出のため集結した、佐竹氏・蘆名氏など3万の反伊達連合軍と安達郡人取橋で死闘を演じた。数の上で5分の1以下の戦力であった伊達軍は重臣・鬼庭良直を殿軍として辛くも持ち堪え、反伊達連合軍の撤退により政宗は窮地を脱した(人取橋の戦い)。

今回はここまで
その弐、その参もそのうち書こうと思うので是非見てくれると嬉しいです
てわけで次回のをお楽しみに(←楽しみじゃなくても楽しみにしててほしいです...)
はじめまして
オーファンです
よろしくです

まぁいろいろ書くんでよろしくおねがいします