以下のようにメキシコの詩人オクタビオ・パスは書いている。
 これは、正に、Media Pointに基づく生活である。そして、これを詩に限定すれば、大岡信の『うたげと孤心』の発想と共通する。
 両者とも、Media Pointの力学、個と共立の関係を説いていると考えられる。
 ともあれ、私が強く感じたのは、メキシコの歴史と日本の歴史の共通点である。共通するMedia Point性が、政治・経済的には、前者は社会主義、後者は国家統制主義(「官僚主義」)となっていると思われる。思うに、MPの共立性が共振性と混同さ れて、つまり、連続性に囚われて、共立主義ではなく、連続的同一性主義=全体主義になっているのではないだろうか。後で、さらに検討したい。

追記:つまり、凹i⇒-1、第三象限の要素が両者にはあるが、連続性のために、凹i⇒+1の第四象限(社会主義、国家統制主義)になっていると思われる。


『我が国民〔メキシコ人〕の生活と歴史は、我々の意志を表現し、それを裏切ることなく超越する「形式」を創り出すことに意を注いできた。「孤独」と「交わ り」、「メキシコ性」と「普遍性」、これらがメキシコ人を蝕む両極端として存在している。この衝突する両端が我々の心底に住みつき、我々の私的な行為や他 の人々との関係においても、明暗が交叉する特殊な色合いをつけるのみならず、それが政治的、芸術的、そして社会的なあらゆる努力の奥深くにも横たわってい るのである。メキシコ人の生活は、この両極端の間を苦しみながら往き来するか、さもなくばその中で、痛ましく不安定な均衡を保っているのである。』 オク タビオ・パス 『孤独の迷宮』、p. 175


そこで思うのは「うたげと狐心」という大岡信の名著の言葉である。うたげは語義的に酒宴の際に手をたたくこと。二人以 上の団欒や心の感合の場である。大岡氏はこれを文芸創造の場に当てはめる。つまり勅撰和歌集以来の日本の詩歌芸道の世界は共通して宴(うたげ)の場であっ た。歌合、連歌俳諧は寄り集まって制作する。そこに結社が生まれそれは近代の文芸同人誌にまで及ぶ。もっとも寄り集まるだけで作品ができるなら気楽すぎる 話で、ひとはそこであらためて己れの「孤心」に戻らねばならない。作品はあくまでも「孤心」の産物である。しかし、「孤心」はまた己れの世界だけに閉じこ もれば自閉的になる。「孤心」をみがくためにはそれを照らし合う「うたげ」の場が必要なのである。同人雑誌が生まれる理由もそこにあるだろうと大岡氏はい う
http://kobe.cool.ne.jp/aoihana/hana10-1.html

『青い花』第十集によせて
「うたげ」と「孤心」のことなど
特別寄稿:安東璋二先生

参照:象限に関しては、以下の図を参照されたい。


外国文学(イギリス文学他)