イギリスの女性小説家ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』(1927年)は、昨年、岩波文庫から新訳が出た。御輿(おごし)哲也氏の見事な日本語訳である。 その作品で、主人公のラムジー夫人の内的語りにおいて、不連続的差異論のメディア界が見事に表現されている。いわゆる、コズミックな感覚がある。(コズ ミックな感覚とは、主体と対象との一体感的な感覚である。あるいは、宇宙一体感的感覚である。)では、コズミックな感覚とメディア界とは細かく見るとどう いうつながりがあるのか。簡単に言えば、メディア界とは、差異の連結する領域であり、この連結がコズミックな感覚と言えるだろう。ここまでは問題がない。 では、現象界のバラバラな感覚とメディア界とはどう関係するのか。問題は、特異性の問題である。現象界のバラバラの感覚とは、特異性というよりは、特殊性 の感覚であろう。それは、自我的個体の感覚である。エゴティズムである。だから、現象界のバラバラ感覚とは、特異性や差異とは関係ない。それは、現象界一 般の感覚であると言えよう。確かに、バラバラとは、不連続的とは言える。しかし、この不連続性とは、差異の不連続性とは異なる。つまり、差異の不連続性と は、共立を伴うのである。この共立ということにおいて、差異の不連続性と現象界の不連続性とは異なるのである。では、現象界の不連続性とは、差異ではない のか。だんだん、用語が混乱してきているので、整理しよう。 
 連続性とは、一般性のことでもある。そして、不連続性とは特性のことである。だから、現象界のバラバラという感覚は、不連続性ではなくて、連続性による のである。一般的個体が、無秩序にあるということである。不連続性と無秩序とは異なるのである。だから、バラバラとは、無秩序であるとしなくてはならな い。連続性による無秩序である。
 では、メディア界の差異の共立や差異の連結とはどういうことなのだろうか。これは、一種、不連続性の秩序とは言える。コスモスという感覚は、実は、この 秩序感覚である。つまり、カオスモスと一致する。だから、ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』におけるコズミックな感覚とは、不連続性の秩序、差異の共立、 差異の連結と見るべきである。作家は「一体感」と表現するが、それは、現象界的連続的表現であり、本来、正確ではない。一体感ではなくて、少なくとも、秩 序感と言うべきである。それは、差異の共立、差異の連結というメディア界の感覚である。
 ということで、この結論から見ると、D.H.ロレンスのコスモスとは、同様に、メディア界の感覚、差異の共立、差異の連結と見るべきである。そして、こ れは、イデア界を示唆するのである。そう、差異の共立と言ったが、それは、少し言い過ぎである。差異の共立とは、イデア界自体の事柄であるからだ。では、 イデア界の「感覚」とはどうなのだろうか。仏教の涅槃、ニルヴァーナとは、イデア界の表現ではないだろうか。そう、キリスト教の天国もイデア界の表現であ ろう。浄土もイデア界の表現であろう。ならば、メディア界とイデア界の表現はどういう違いがあるのだろうか。いわゆる、主観と客観の統一とは、メディア界 の表現だと考えられる。西田哲学はそういうものだろう。しかし、イデア界の表現とは、超越的なものである。超越神は、そのようなものである。神秘主義は、 一般に、メディア界の表現である。そう、主観を超越しているか否かが、イデア界とメディア界の表現の違いと考えられる。つまり、一種、超越的知をもつか否 かが、メルクマールである。この点、グノーシス主義は、イデア界性をもつ。 
 ということで、ヴァージニア・ウルフの場合、メディア界的感覚表現が主であると言える。ウルフの場合、イデア界的表現はどうだろうか。「他人には見えない楔形をした暗闇(ダークネス)の芯」とラムジー夫人の本来の自己を表現している。(p. 115)
「楔形」は三角形であるから、これは、メディア界のように考えられる。しかし、「芯」が、イデア界のように考えられる。
 以上から、ヴァージニア・ウルフとD.H.ロレンスは、メディア界、イデア界の表現で共通していたと言える。ただ、ロレンスの場合、よりシャーマニズム的だったと言えよう。