三重県津市の

 

 

「初馬寺」

 

 

 

新しい仏画御朱印を出されたということで参拝に行きました。

 

 

初馬寺御朱印

本尊・馬頭観音の御朱印。

 

昨年より出されている御朱印です。

 

初馬寺の本尊の馬頭観音は秘仏で前立が立ちます。

 

 

 

初馬寺御朱印

6月~9月までの限定・愛染明王の御朱印です。

 

 

 

初馬寺前立本尊の馬頭観音

 

 

 

日本仏教の大恩聖者聖徳太子が厄除け・病気平癒のため開創されたお寺と伝えられております。

 

即ち、太子42歳の厄年の時(614年)東の四天王寺建立を発願せられ、この伊勢の地に来られたおり、急に病に罹られ造営も太子の意のままにならず、そこへ加えて都より使いの者が現れ、御母と正妃がご不例である旨を伝えます。

 

太子は大層ご心配になり、師であった高麗の僧、慧慈に「如何せばや」と計られたところ、慧慈は徐に口を開き「聖体今年42歳の厄難の悪しき年廻りにあらせられます。伏して乞う、伽藍の艮(うしとら)の方角に馬頭観世音菩薩を彫み、法報二身を併せ安置し除難の法を厳修したまえ」と申されました。
 

太子はいと喜び、師の言を信じて刀を取り、一刀三礼厄除け観音を彫刻せられ、法身大日如来を慧慈に、報身阿弥陀如来を慧聡に刻ませ、鬼門の方に草堂を結んで安置し「馬宝山観音寺」と称し、当時高名な奈良法興寺(飛鳥寺)の善徳僧正を召して修法に当らせられました。

 

それらが効を奏し、7日の後には三人お揃いで全快の喜悦を得られ、伽藍の工事も無事に進んで竣工の日を迎えました。その日は推古天皇の26戌寅年(618年)三月の初午の日にあたり、馬頭観音は当山の本尊として安置されました。

 

永く法相宗でありましたが、仁治3年(1242年)藤原道家の子、法助僧正の教化により真言宗に属するようになりました。
 

近世に至り、元和3年(1617年)国家鎮護の道場に当てられ、その後間もなく津藩主、藤堂高虎公の晩年に藤堂家守護の祈願所とされ、次いで二代藩主高次公は今の地に堂宇を建立、寛文12年(1672年)に完成。藤堂家の除災修法寺に当てられました。


その後延宝8年(1680年)三代藩主高久公より「初馬寺」なる額を寄進され、以来藩下唯一の聖徳太子ゆかりの厄除観音として栄え、藤堂公もこのお寺の前は下馬して歩かれたと伝えられています。また寺子屋も開かれ、幕末の頃には生徒数700人と藩下一の規模であったと云われます。

 

しかるに、昭和20年6月26日太平洋戦争の津爆撃で歴史ある当山も一瞬にして破壊されました。同27年、30年に国宝仏を修理及び奉安庫、昭和51年に本堂の再建を完成させ今日に至っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

位置情報

三重県津市栄町3-210