ヒーリングの師匠である本郷綜海さんがヒーラー辞める宣言をした。

より瞬間を生きたい
ということだった。

私は、なるほどあらゆる役割から降りたところからより本質を生きる、ということかと思った。

立場としての役割からは降りたとしても存在そのものがヒーラーでなくなるということは起きない気がしているから

「その瞬間」が来ればまたヒーリングもするだろうし、何かしらの講座とかもいつかやるんじゃないかしら、と思ったので
特に寂しく感じたりガーン!ショック!ということは自分の身には起きなかった。

むしろ綜海さんはいつだってそうしてきたんじゃないか、とすら思っていたので、逆に、そうだったのか!と驚きさえした。

けれど、周りの反応を見ているとどうやらそうではないらしく
母親との関係性が投影されて
分離に涙したりそんな自分に驚いたりしている人が結構いた。

そうか。
でもでもなんで自分はこんなにも感情が動いていないんだろうか
このことすらも母親との関係性が投影されているとしたら
一体どんなことがあるんだろう?
と興味を持って静かに自分を見つめていた。

静かに見つめながら過ごしていると
じわじわ薄らと見えてくるものがあった。

それは
絶望の感触だった。

綜海さんはFacebookで友達として繋がっている人達も整理していて、私もその繋がりが切られていた。

その時は「ふうん、そっかあ」くらいにしか感じていたかったけれど
静かに見つめながら居たときに
そのことも一緒にくっついて浮上してきた。

自分は相手にとってそんな程度の存在でしかない

ファンキーな母に育てられつつも
精神のありようも自分なりに工夫してサバイブしてきてしまったし
まさか自分にそんな傷があるなんて事もすっかり忘れていた上にその影響下にあるなんてことも忘れていた。

忘れていたし乗り越えてしまったけれど傷が癒えていたわけではなかったんだな。

母に育てられる過程で
放任主義だなあとは思っていたけれど、振り返って起きたことを考えてみると、私に起きていたことは放任主義を全然超えていてもはや放棄だったと
今は思う。

高校生だったとはいえ
母に食べ物とお金と犬と住まいだけ与えられ、電話をかけても出てくれなかったり出ても無言で切られた事もあった。

母を親として見るから辛いのだ
母も人間であり一人の女性だ

そう思うことにした私は
母に期待してきた母としての在り方を
そっと静かに諦めた。
深い絶望と共に。

その後、母にその頃の満たされなかった怒りをぶつけたこともあったが
今は仲良くしていて関係性に問題はない。

ただ、あの時の、深く落胆するような感覚、絶望のようなものは
母への母という役割への期待と共に封じられ
私の目の届かないところ
意識の深いところにしまい込まれた。


それがまさかの綜海さんとの関係性の変化において転移という形で傷と感情が浮上してきたのだ。


そしてその頃ちょうど、自分の下腹とお尻から力が抜けがちなことに気づいて身体の方面から取り組んでいたところだった。

深く深く息を吐き切る。
普段使っていない筋肉も使って
吐き出せるだけ息を吐いてみる。

私は自分の内に出しそびれてしまった古い感情がありそれに気づいて手放すと決めたとき
いつでもまずは呼吸から始める。

その気持ちを感じてみるとどこかに身体の強張りが生じる、大抵はキュっとする感覚だ。

けれどと今回は逆で、強張りではなく「力が入らない」という感覚と共に絶望の感触が残っているのを薄らと感じた。

なるほど。力を抜くことで感じないようにしてきたのだな。

深く深く息を吐き切る
腹筋のインナーマッスルや筋膜の感覚を確かめながら
吐き切ったと感じるそのもっと奥まで肺の細胞も全部縮めるような感覚で

咳が出たり唾や痰が出たりする

こうしてある程度、吐き出せたらスッキリすることもあるけれど

今回はもしかしたらひとりでは解けないかもしれない
と感じることもある

そんな時はかかりつけの敏腕ヒーラーのセッションを予約して
その中で取り組むことにしている

ほんの微かな違和感でしかなかったけれど、それを見逃さないことで私の奥深くに眠っていた絶望感を癒す機会となる

どんな人でも大抵は一足飛びにバキバキのバリバリに癒しが完了するわけでもない

自分の心の内側を見つめ続けることとか
気づいたらちゃんと扱うこととか
ものすごく地味なことの積み重ねの上にあったりする

もちろん一回のヒーリングで雷が落ちたみたいにドガンと深く大きな癒しが起こることだってあるだろう

それでも筍の皮を剥くようにして
ひとつひとつ地道に取り組むことが全く必要ないわけではない

過程においては途方に暮れることだってあるかもしれない

だけど、そういったプロセスを経験するということこそがギフトでもあるということなのだ

その感触を確かめて
リアルなこととして知っている自分であるということに
意味があったりする
意味が生まれたりする

なので
本当に全ては完璧だ

私が深い絶望を眠らせて抱えてきたことも
母が母として私と出会い
同時に人間として女性として生きたことも
全部がギフトなのだ

この経験をしたからこその私でいられる喜びよ

ありがとう、お母さん
私を産んで育ててくれて

はちゃめちゃだったけど
私には全部必要なことでした

だからこそ
本当に深く、素直に
ありがとう
って感じられている

毒親だ、親ガチャ失敗だ
と今なら見ることだって可能かもしれない

だけど
私は、全部がギフトに思えるよ

私も幸せだし
母も幸せだ

長年ずっと
こういうことがしたかった
あらゆる怒りや憎しみを乗り越えて喜びに昇華するというようなことを。

全ては私の選択によるものであり
そう選択できる道のりであったこと

ありがとうございます。

深い感謝と喜びが
からだの奥のほうから
岩清水のようにじわじわと沁みてくる

なんて味わい深い旅路なんだろうか、人生