しばらく間があいてしまいましたが、マッドマックス フュリオサの感想の続きです。もう、かなりネタバレですので、ご了承のうえ、読んでくださいませ。

 

 

今回の映画で、印象的だったことがいくつかあって、

①ものすごい数の人が死んでるはずなんだけど、あまりグロくないし、怖くないし、血とか見てないなということ

②女性が思ったより丁寧に扱われていたなということ

③いろんな意味で、乾いていたなということ

 

①はとにかく人がたくさん死ぬ。イモータン・ジョーの手下の白塗り軍団とか、もう簡単に死んじゃう。火薬のついた槍を持って、敵に突撃しちゃうとか、車輪に巻き込まれるとか、すさまじい数の死が描かれているはずなんだけど、爆発だったり、砂煙だったりはあるんだけど、血が出ないのよ。あえてその表現なんだと思うんだけど、その分、なんか怖くないのよ。実感がないというか。言い方は悪いけど、ある種、見世物的というか、軽い。

 

おそらく、この世界観のなかでは、人の生き死にはすごく身近で、今の私達が生きてる世界より、人の命が軽いということを表しているんだと思う。だからこそ、この映画がエンターテインメントとして成り立つんだけどね。いちいちかわいそうとか思っていたら、爆発シーンとか成り立たないし。

 

でもね、③ともつながるんだけど、とにかく乾いた大地で、人が血も流さずにバタバタ死んで、死んでも誰も涙も流さず、立ち止まらず、当然のごとく、事態は動いていく。フュリオサの愛した人であるジャックが死んだときでさえ。もちろん、自分が生き残るのに必死で、涙なんか流している時間はないんだけど、それも含めて、感情までもが乾いてるんだよね。

 

これは、私の勝手な思い込みかもしれないけど、この映画の大前提である「水がない」ということが、ものすごく心にも影響してると思う。

大昔に、トルコに旅行に行ったことがあるんだけど、もうすぐトルコにつくというとき、アナトリア高原の上を飛んでいて、見渡す限り、地平線の彼方までずっと、雲が本当に1つもなくて、はるか下に自分の乗っている飛行機の黒い影がずっと映っていた。空は限りなく青く、アナトリア高原の土は赤茶けていて、木は一本も生えてなくて、当然川もなかった。その時に初めて、晴天を見て絶望的な気持ちになった。

 

水がないって、こんなに絶望的なことなんだ、と。

 

中東とか、民族や宗教の対立を元凶とする内乱や戦争が多いと思うのだけど、やはり水がない事自体が、少なからず影響していると、私は思います。

 

で、最後に、女性の描き方についてですが、80年代に思春期を過ごした私にとって、こういう類の映画では、女はすぐにレイプされて殺されちゃってた。

 

それに対して、今回は、フュリオサが子供だったこともあるかもしれないし、今時のコンプライアンスの問題もあるかもしれないけど、フュリオサはすごく大事に保護される。で、他の女性も美しいハーレムみたいなところに集められていて、乾いた地獄みたいな外部とは別世界の天国みたいなところで暮らしてる。

フュリオサが捕らえられて、最初にディメンタスに差し出されたとき「完全に健康な女の子です」と宝物みたいに扱われる。そのあと、イモータン・ジョーも、「健康な女の子だな。大きくなったら俺の嫁になれる」みたいなことを言う。

 

そう、産む性ということが、すごく尊重されていると感じた。背景として、世間が汚染されていて、健康な人間が少なくて、まともな子供が生まれないということがあり、そこに緑の谷から現れたフュリオサは「希望」の子だったんじゃないかな。そういう描き方をしたことに監督のメッセージ的なものを感じました。

 

今、有り難いことに平和なこの日本では、産む性であることは、ややもすると負担だったり不利に感じたりすることもあるけど(キャリア形成とか、日々の育児負担とかね)、戦乱の世の中では、産むことが出来るって、それだけですごく価値があることなんだ。まあ、昔の軍国主義みたいに産めよ増やせよとなっては困るのだけど、産めることの素晴らしさを再認識しました。

 

でも、希望の光だったはずのフュリオサは結局闘争のただなかに引きずり込まれるんだけどね。やっぱり切ない。

 

ずいぶん脱線気味ですが、マッドマックス フュリオサの感想でした。最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

おまけ

 

フュリオサ見終わって、ぶちあがるはずが、切ない気分になってとぼとぼと映画館を出たとき、ふと見ると、前のカップルの女子がカバンに着けていたダッフィーアンドフレンズのオルメルと眼が合いました。癒された…。

 

 

 

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