その湯呑みは父親からもらったものだった。あれからもう20年たつ。それが今、彼の目の前で割れてしまった。
全体が四角く角ばっていて、表面の波状にうねっているでこぼこや、見る者にさわやかな感じを与える淡い青の地に、春、夏、冬の毛筆体の文字があり、秋がない代わりに、残りの1面には4文字の漢字が草書体で書かれていた。
中をのぞき込むと、持ちやすいように作られた側面の4か所のくぼみに光が通り、向こう側の明かりを受けてほのかに発光する障子のようにそこだけが明るく見えるものだった。
彼はかけらの集まりになってしまった湯呑みを凝視していた。少しすると、そのうちの1つをそっと手に取った。そのかけらをしばらく見つめた後でもう1つ取った。
欠けた面は刃物の鋭さをその白い中に秘めているようで、またその粒砂糖のような荒々しい質感はもう二度と元の形には戻らないことを断言していた。
彼はかけらを1つ元の場所に戻し、残したほうを親指の腹でこすってみた。ざらざらと小さな粒が残り、それを人差し指と合わせて、灰皿のようになってしまった湯呑みの底の部分に落とした。
彼はちょっと首をかしげるふうにして、かけらをジグソーパズルのようにテーブルの上へ並べ始めた。それはわりとすんなり出来上がった。しかし、彼は眉をひそめた。ない。飲み口の一部が欠損している。彼はにわかにそわそわし、そこを離れたりしてあちこちに目を運んだが、それはみつからなかった。
数日たった。その日、彼は外出をした。
帰ってきたときには小さな紙袋を抱えていた。
彼は机の引き出しにしまっておいた例のかけらを出してきて、またテーブルの上へきれいに並べた。やはり飲み口の一部は欠損している。
彼は紙袋の中身をものすごく大事なもののように慎重に取り出した。彼にとってはかけがえのないものとさえいえそうな一連の動作だった。
湯呑みだった。文字の代わりに笹の葉が描かれている上、やや小振りだったが、割ってしまったものに酷似していた。彼はそれを組み立てた湯呑みの横に置き、最初は2つをいっぺんに見ていたが、最後にはその視線は割ってしまったほうに絞られた。
彼は目を覚ました。窓にはカーテンをしているにもかかわらず、朝の日射しは恐れ多いほど力に満ちていた。
彼は一方の目だけを微かに開けたまま両腕を強ばらせていた。周囲だけを明るく照らし、その中の彼を黒く浮き立たせていた日射しが彼に影響を及ぼし始めた。目の前の世界を奪われたように彼は硬直した。
やっといつもの状態になった彼の目は湯呑みのほうを向いていた。彼はその湯呑みに置かれていた寝ぼけ眼のままの視線をそらしたが、下唇をぴくりと動かし、はっと空気を吸い込むとともにすぐ湯呑みに戻した。
その目は今にも眼球が飛び出さんばかりに大きく見開かれていた。
湯呑みが割れていない。あの割れていたはずの湯呑みが割れていないのだ。彼は見た。それを手に取った。飲み口の欠損した部分もきちんと直っている。彼は力を込めたまばたきを2、3回した。
彼は何もかも吸い取られてしまって体のみが残されているみたいにそこにいた。顔に張り付いているだけの頬や肩から下がっている腕、湯呑みに引き付けられる目、そんな状態の彼の足元から明るいもやのようなものがたった。
天井からつるされている照明を見上げ、そのままじっと見つめた。照明はどんなに見つめても暗いままだった。
その瞬間、彼にはこの湯呑みをもらったときの父親の顔が浮かんだ。彼は湯呑みを両手で押さえた。不意に不規則な呼吸をしている自分に気づいた。
青の淡い地に白い文字、波状のでこぼこ。彼は「それ」を手に持っていた。日射しにさらすと、くぼみに光が通ってそこだけが明るく見えた。
彼は口の両端をやや持ち上げ、またまばたきを1つした。しかし、それは決して笑顔という類いのものではなく、このときの彼に宿った特別な感情の表れだった。
それまで彼の体のあったことがわかる掛け布団や、真ん中のへこんだまくら、朝日が貫通し、そこだけが脱色してしまったように見えるカーテンもそうだった。
刻々と針を動かす置き時計も、縁だけが白い線となって暗がりに取り残されている鏡も、闇に溶けて灰色の壁を突き出しているボックスティッシュも、彼にはすべてがいつもとは違っていた。「それ」だけが普通のもののように感じられた。
湯呑みを置いてあった場所に戻すと、彼の視線はその隣の空間に移った。彼は能面のような顔になった。その空間の様子に彼はすべての表情を奪われてしまった。
昨日買った湯呑みがない。周りを見たがみつからなかった。ただみつかったものといえば、中に入れていたと思われる紙袋だけだった。
湯呑みは台所の流しの横にあった。割れていた。風でも吹いたように、かけらがほんの小さく音をたてたような感じがした。
全体が四角く角ばっていて、表面の波状にうねっているでこぼこや、見る者にさわやかな感じを与える淡い青の地に、春、夏、冬の毛筆体の文字があり、秋がない代わりに、残りの1面には4文字の漢字が草書体で書かれていた。
中をのぞき込むと、持ちやすいように作られた側面の4か所のくぼみに光が通り、向こう側の明かりを受けてほのかに発光する障子のようにそこだけが明るく見えるものだった。
彼はかけらの集まりになってしまった湯呑みを凝視していた。少しすると、そのうちの1つをそっと手に取った。そのかけらをしばらく見つめた後でもう1つ取った。
欠けた面は刃物の鋭さをその白い中に秘めているようで、またその粒砂糖のような荒々しい質感はもう二度と元の形には戻らないことを断言していた。
彼はかけらを1つ元の場所に戻し、残したほうを親指の腹でこすってみた。ざらざらと小さな粒が残り、それを人差し指と合わせて、灰皿のようになってしまった湯呑みの底の部分に落とした。
彼はちょっと首をかしげるふうにして、かけらをジグソーパズルのようにテーブルの上へ並べ始めた。それはわりとすんなり出来上がった。しかし、彼は眉をひそめた。ない。飲み口の一部が欠損している。彼はにわかにそわそわし、そこを離れたりしてあちこちに目を運んだが、それはみつからなかった。
数日たった。その日、彼は外出をした。
帰ってきたときには小さな紙袋を抱えていた。
彼は机の引き出しにしまっておいた例のかけらを出してきて、またテーブルの上へきれいに並べた。やはり飲み口の一部は欠損している。
彼は紙袋の中身をものすごく大事なもののように慎重に取り出した。彼にとってはかけがえのないものとさえいえそうな一連の動作だった。
湯呑みだった。文字の代わりに笹の葉が描かれている上、やや小振りだったが、割ってしまったものに酷似していた。彼はそれを組み立てた湯呑みの横に置き、最初は2つをいっぺんに見ていたが、最後にはその視線は割ってしまったほうに絞られた。
彼は目を覚ました。窓にはカーテンをしているにもかかわらず、朝の日射しは恐れ多いほど力に満ちていた。
彼は一方の目だけを微かに開けたまま両腕を強ばらせていた。周囲だけを明るく照らし、その中の彼を黒く浮き立たせていた日射しが彼に影響を及ぼし始めた。目の前の世界を奪われたように彼は硬直した。
やっといつもの状態になった彼の目は湯呑みのほうを向いていた。彼はその湯呑みに置かれていた寝ぼけ眼のままの視線をそらしたが、下唇をぴくりと動かし、はっと空気を吸い込むとともにすぐ湯呑みに戻した。
その目は今にも眼球が飛び出さんばかりに大きく見開かれていた。
湯呑みが割れていない。あの割れていたはずの湯呑みが割れていないのだ。彼は見た。それを手に取った。飲み口の欠損した部分もきちんと直っている。彼は力を込めたまばたきを2、3回した。
彼は何もかも吸い取られてしまって体のみが残されているみたいにそこにいた。顔に張り付いているだけの頬や肩から下がっている腕、湯呑みに引き付けられる目、そんな状態の彼の足元から明るいもやのようなものがたった。
天井からつるされている照明を見上げ、そのままじっと見つめた。照明はどんなに見つめても暗いままだった。
その瞬間、彼にはこの湯呑みをもらったときの父親の顔が浮かんだ。彼は湯呑みを両手で押さえた。不意に不規則な呼吸をしている自分に気づいた。
青の淡い地に白い文字、波状のでこぼこ。彼は「それ」を手に持っていた。日射しにさらすと、くぼみに光が通ってそこだけが明るく見えた。
彼は口の両端をやや持ち上げ、またまばたきを1つした。しかし、それは決して笑顔という類いのものではなく、このときの彼に宿った特別な感情の表れだった。
それまで彼の体のあったことがわかる掛け布団や、真ん中のへこんだまくら、朝日が貫通し、そこだけが脱色してしまったように見えるカーテンもそうだった。
刻々と針を動かす置き時計も、縁だけが白い線となって暗がりに取り残されている鏡も、闇に溶けて灰色の壁を突き出しているボックスティッシュも、彼にはすべてがいつもとは違っていた。「それ」だけが普通のもののように感じられた。
湯呑みを置いてあった場所に戻すと、彼の視線はその隣の空間に移った。彼は能面のような顔になった。その空間の様子に彼はすべての表情を奪われてしまった。
昨日買った湯呑みがない。周りを見たがみつからなかった。ただみつかったものといえば、中に入れていたと思われる紙袋だけだった。
湯呑みは台所の流しの横にあった。割れていた。風でも吹いたように、かけらがほんの小さく音をたてたような感じがした。
(了)