今日から首都にいて

ネット環境がよいので今まで書きためたブログを一気にあげます(笑)



ちなみに任地から首都に上京するには、


夕方任地から50分程度離れた

となり町にバスを利用して行き

夜行の列車に一晩(22時乗車~今回は列車が遅れたので

翌日11時くらいにつきましたが)乗り、


首都の駅から20~30分程度タクシーを利用して協力隊の宿舎に
到着します。

正直とても遠いな・・・と感じますが

陸路で鉄道が発達していることにも驚きますし
エクスプレスの少し値段が高めの鉄道は内部も結構綺麗で
冷房も(かなり)きいているので
それなりに快適な旅ができます。


 

 

最近行事にふたつ参加したので紹介します。


ひとつめは出産祝い。


大家さんのおうちに最近赤ちゃんが生まれて、

 

出産祝いのフェット(お祭りと訳して良いのか・・・

お食事会みたいな感じです)

 

におじゃましました。

 


 

 

日曜日の朝、

「今日17時から家でお祝いをやるからいらっしゃい」と

招待されました。



 

私はご家族+αくらいの小規模のものを想定して

ガボン服を身にまとって行きましたが、

 


家の前の庭(日本人が想像する庭っぽくはないかもしれません。

いつも洗濯物を干しているスペースです)に

 


プラスチックの椅子が並べられていて最終的に親戚、ご近所など

 

60人以上が集まってこんなに盛大なものなのかと驚きました。

 

 

 

こちらの習慣は、何かお祝いごと(出産や、誕生日や)があると、

 

その当人や家族が料理を用意してお客様を招待するよう。

 

 

 

はじめに親戚の男性が司会をやって

 

赤ちゃんのお父さん、お母さんになる若い男女が紹介され、

 

みんなでおめでとう~!と声をかけ、

 

その後、家族総出で作ったらしい料理を皆で頂きます。

 


料理はバイキング形式で、ガボン料理が並びます。

 

ちなみに料理をとる順番は女性、男性、子供でした。

 

 

 

以前のブログに、結婚は子供をもうけてお金の工面がついてから

 

後々することも多いと書きましたが、

 


この出産祝いをもって、

ふたりが赤ちゃんのお父さんとお母さんであることを

 

まわりの皆が認めてお祝いして、

 

日本の結婚の代替のような役割なのかもしれない

 

と感じました。





もうひとつのお祭りは、イスラムの犠牲祭(タバスキ)です。



日頃お世話になっているチャド人のイスラム教徒のご家族に

招待され、おじゃましてきました。


(通常はその日ガボン全体で休日となりますが、

私はたまたま仕事があったので夕方からの参加)




犠牲祭は、アッラーの神に羊などの動物を生贄として捧げ、

神に感謝の気持ちをあらわすお祭りです。




任地のイスラム教徒(アフリカ諸国の外国人が多い)の家では

朝から家の前などで羊を解体し、その後皆で食べる習慣があるようです。




ちなみにガボン人(キリスト教徒が多い)の知人に聞くと、

イスラム教徒のお友達に誘われれば

自分も羊を食べにいくこともあるよ、とのこと。




ただ私のお邪魔したおうちでは残念ながら

羊を確保できなかったらしいです。

(この時期皆が羊を欲しがるので村などつてを頼っても

見つけられなかったとのこと)




女の子は皆きれいな洋服でおしゃれをして

(よい写真がなかったので紹介できないのが残念)

皆でダンスをしたりお食事したり

お客様をもてなしたりします。




夕方には皆でぎゅうぎゅうに車にのって、

親戚のおうちを7~8件あいさつにまわりました。


クラムトゥだけでもこんなに親戚の家族がいるのかと

驚きました。塀が立派でかなり裕福そうなお家や、

土壁、土床で質素な佇まいのお家や、

色々なご家庭がありました。




親戚への挨拶をするあたり、日本のお正月にも似た印象を受けました。





また、私は今回羊を解体するところは見ていませんが、

ガボンは肉食文化であることもあって、

日常的に市場で解体されて姿が残る動物が売られていたり、

道端で焼いていたりします。



日本にいると加工されて元の形がわからなくなった肉しか

普段見る機会はありませんでしたが、



こちらは生きている動物の命を断って食すということが

自然とつながっているような気がします。

(もちろん輸入品の肉のかたまりも多く売っていますが)


だから日本人とどう違うのか、私にはまだ明確な答えはよくわかりませんが、


自分の食べるものを自分で得て、さばいて、

自分で獲得できない子供には食べさせて、

家族やまわりの皆と生きる、


という段階を、本当に、自然にやっていて、

(他にやってくれるひとがいなければ自分でやるしかないのが

当たり前だと思いますが)


生きる力の強さを感じます。