『共同幻想論』について

対幻想というのは人間社会がより(原始的な非象徴的非幻想的関係━これを吉本隆明は〈〉を外して表現する━と比べて)安定して象徴を交換・機能させる事ができるようになったそのフィールドである文化で個々の要素が対となって現れる事を指している。

対幻想とは、Yahooの知恵袋で見かけたが個人としての〈自己〉(勿論これは空想の産物で時には芥川龍之介やグスタフ・マイリンクの小説、ホフマンスタール『バッソンピエール公奇譚』のように自分自身の姿をそのまま視覚する〈物語〉もあり得る)と遠野物語に頻繁にみられるように〈集団〉や〈共同体〉で共有されて〈個人〉を拘束する〈規範〉や〈法〉、〈道徳〉(アルチュセールのイデオロギー概念の理解に近い)の対の関係の一方であるとするのは不充分で

〈男〉と〈女〉、〈兄弟〉と〈姉妹〉、〈家〉と〈共同体〉のようなある程度対等な象徴の間に成り立つ関係を指し示している語である。

全編を通して気になる点がいくつかある。というのも、

Wikipediaによると吉本隆明は当時のニューレフトの教条主義に嫌気がさしてこの本を書いたらしいが━

1.フロイト以前の文化人類論を旧来の価値観による偏見からくる誤った理論だと退けている

その根拠は嫉妬に対処する母権制がその非現実性故その機能を果たせないためにそれが習慣化したと考えるのはナンセンスだというのだが、

前提とするものを結果として評価しているという彼のP(述部)によってなされるその判断その正否はすべて〈個人〉の幻想的所見であり我々が不可解に感じないという〈常識〉という明証不可能なものに求めている点で吉本隆明のゲームにノッた上でも批判能力を持っていないだろう。

2.なぜ、象徴秩序やそれと対応する識別子を使っただけで不確かなあるものが確かなものになるのだろうか?別種の車で同じ目的地に着いても彼は彼の考えるコードに従った道具を使っていないからその目的地に着いてはいないと主張するのだろうか?

3.人間の文化の形成過程で象徴にあたるものは個人的なことも共同体的なものもひっくるめて現実の似姿ではあっても現実に対応するものではなく〈現実〉と解されるものであることを認めているにも関わらず、なぜ人間によってなされた〈慣習〉の第一原因は現実的な方法でのみ帰結を生み出せると考えるのか疑問である。

彼のいう曖昧とは現実に根ざしていないことであるが

その共同体で権力を振るう事が可能である支配母体が利用する〈象徴〉は現実と乖離したものでありそれが特に〈聖〉である場合ではそうでなければならないはずなのに他者の論拠を個人的選択でなく客観的にみて最もらしいかのように曖昧に論じてる点。

これらはフロイトを援用した優れた社会文化論を台無しのものにしている。

その人間に課された役割は象徴的なものであり第一に志向性があること、その人間がどう存在するかに限らずその認知的解釈は近似され本人とは無関係に一面化するためにあらゆる行動は不可知で真である動機から容易に理解でき当人と接点をほとんど持たないコード化された模造品に置き換えられるために基本として生政治的に無力である。

ただしこれは正規の手段を取った場合の話である。