中嶋一族シリーズ、子孫達 | 歴史再現映像NOTORIOUS iPhone一つで作る映画制作奮闘記!

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話を作るのも台本として脚本化するのも殺陣を考えるのも演出を考えるのも撮影するのも編集するのもクラファンするのも何もかもが未経験からスタートした私が俳優さん達、素人の出演者を集めて映画監督に?
そんな私の奮闘記?

中嶋氏種の一子は河内国茨田郡岡新町村、現在の大阪府枚方市に帰農、江戸時代には代々中嶋九右衛門を名乗り近隣屈指の豪農として存続した。
屋号は紫屋である。
現在、中嶋家の系譜をひく一族が枚方市新町、同市、中宮町、大東市新田に三家ある。

大坂夏の陣で敗れた後、一族の一部は筑後柳河藩の田中家(後、柳川藩の立花、久留米藩の有馬に分割)を頼って筑後福島に移転した。
福岡県八女郡黒木町及び八女市吉田にも庄屋として中嶋家の系譜をひく一族がいる。

中嶋九郎兵衛は尾州中島村中嶋城主の流れで後、前田家に随身し、星崎城を、預かったようである。
星崎城は名古屋市南区星崎本城町一番地にあり笠寺小学校の敷地で土居、濠の一部が残る。

幕末期の幕臣でペリー来航時の浦賀奉行所与力、後に蝦夷共和国箱館奉行並
、砲兵頭並として、千代ヶ岡陣屋で戦死した中島三郎助もその先祖を氏種としている。
三郎助の先祖が1669年寛文9年に下田与力に召し抱えられて以来幕臣として与力を務めてきた家柄であったとされる。
喘息の持病があったという。

中島工業社長も家伝の系譜書により先祖が中島氏であることが判明される。

旧尾西冨田の中島氏

冨田1854の1の中島芳氏ら一族は中嶋城主の末裔と伝えられている。
中嶋家は江戸初期の木曽川改修で土地の七割五分が水没した為、旧尾西板倉
、萩原町高木、石橋、名古屋市などへ一族分散したが冨田には尚一統39軒以上が現存している。

木曽川流水の変化のため、祖先、累代の墓も木曽川流砂の底に埋れたといわれるが、板倉の一族、中島代吉は1816年文化13年矢合円光寺(滅宗宗興の開基)へ「中嶋城主中嶋蔵人源宗苗滅宗和尚」の位牌を寄進し妙興寺に現存している。

昭和38年10月20日、冨田中島一族は本家門前に「中島一族発祥の地」の顕彰碑を建て本家当主、中島芳氏(元尾西市教育委員長)は昭和41年11月3日「
中嶋蔵人とその後裔」を上梓された。

中島正介長利の子、市右衛門なる人が冨田に定住し冨田中島家の基礎を確立したがこれより先、中島監物なる者が承久の乱後、居館、所領を没収されたので冨田に仮住まいを設けたと説いている。

天保年間の記述の「中島由緒記」に「作恐私先祖儀八中島蔵人等末孫と申事二御座候。
落城と相成て後。 浪人仕 冨田二居住。
農作を発起致とか哉」とあるので地元居残り唯一の中島一族であることは間違いあるまい…




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