往々にして、人は自分自身の性格に対して、それが遺伝によるものかどうか
何となく気づいていることが多い。
これは、まず周囲の人間(特に家庭の外での集団が多いだろう)との相対化によって、
自分自身の性格や体格について、自覚的に把握されることからはじまる。
そして、次のステップとして、その自覚した性格について、家族との比較によって、
遺伝的なものであるかどうかの推論を行う。
このプロセスを注意深く考えてみると、ここでもやはり集団社会化論的に遺伝的形質が
把握されてくることに気づく。すなわち、まず自己の性格の自覚については、家庭内に
おけるよりも、家庭外における比較のほうが、より自分自身をくっきりとあぶりだすのであり、
非共有環境(家庭外環境)こそが、より遺伝子のポテンシャルをはっきりと引き出す、という
行動遺伝学の原則とも辻褄が合う。
ということはどういうことかというと、同じ遺伝子を持っていたとしても、非共有環境が異なれば、
発現してくる性格が変わってしまうということである。発現の仕方が、その人自身の運命を
決定づけてしまうのだとしたら、非共有環境の選定の仕方が非常に重要なことになる。
これは、考えてみればある意味で自然なことかもしれない。
今日、とある雑談の中で、自分自身の遺伝子に加えて、家族の遺伝子も測っておきたかった
という発言に出くわした。自覚した性格を家族との比較によって確認するということは、
とりもなおさず家族をひとつの遺伝子プールであると捉えていることになる。すると、
その遺伝子プール内においては、共有環境はいわばグループ企業間における内部取引の
ようなものであり、連結会計に反映されないのと同時に、パーソナリティーに大きく影響しない。
その一方で、集団が直面するあらゆる非共有環境が、直接的・間接的に家族メンバーに
影響を与えることになる。これは、何となく日常生活を通じて納得感があるのではないか。
今日はこの辺までにとどめておこう。
何となく気づいていることが多い。
これは、まず周囲の人間(特に家庭の外での集団が多いだろう)との相対化によって、
自分自身の性格や体格について、自覚的に把握されることからはじまる。
そして、次のステップとして、その自覚した性格について、家族との比較によって、
遺伝的なものであるかどうかの推論を行う。
このプロセスを注意深く考えてみると、ここでもやはり集団社会化論的に遺伝的形質が
把握されてくることに気づく。すなわち、まず自己の性格の自覚については、家庭内に
おけるよりも、家庭外における比較のほうが、より自分自身をくっきりとあぶりだすのであり、
非共有環境(家庭外環境)こそが、より遺伝子のポテンシャルをはっきりと引き出す、という
行動遺伝学の原則とも辻褄が合う。
ということはどういうことかというと、同じ遺伝子を持っていたとしても、非共有環境が異なれば、
発現してくる性格が変わってしまうということである。発現の仕方が、その人自身の運命を
決定づけてしまうのだとしたら、非共有環境の選定の仕方が非常に重要なことになる。
これは、考えてみればある意味で自然なことかもしれない。
今日、とある雑談の中で、自分自身の遺伝子に加えて、家族の遺伝子も測っておきたかった
という発言に出くわした。自覚した性格を家族との比較によって確認するということは、
とりもなおさず家族をひとつの遺伝子プールであると捉えていることになる。すると、
その遺伝子プール内においては、共有環境はいわばグループ企業間における内部取引の
ようなものであり、連結会計に反映されないのと同時に、パーソナリティーに大きく影響しない。
その一方で、集団が直面するあらゆる非共有環境が、直接的・間接的に家族メンバーに
影響を与えることになる。これは、何となく日常生活を通じて納得感があるのではないか。
今日はこの辺までにとどめておこう。