sunrise*

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        嫌でも明日はやってくる。静かな気持ちで今日もゆく。

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風邪を引いた。

 

自慢と言ってはなんだが、私は子供のころから滅多に風邪を引いたことがない。

 

やれ鈍感だ、やれ愚鈍だと揶揄されてきた身の上だが、健康であることに感謝こそすれ、疎ましく思うことはなかった。

むしろ、健康であることに感謝してきたつもりである。

健康であることに感謝し、常に健康でありたいと考え、事実、健康であるように最新の注意を払って生きてきた。

それでも今年は風邪を引いた。

 

風邪になると、普段どれだけ感謝していても、健康であることの有難みというものは骨身に沁みるものだ。

 

思うように体が動かない。

まるで途方も無い労力を消費して他人の体を操縦しているかのよう。

 

健康というのはなんと透明で、有難みに乏しく、どんな奇跡よりも偶然的なものであろうか。

病床に伏せるにつけ、私は健康であることに感謝する。

 

健康であるということは、自然ではないからだ。

常に気を使い、気を配り、気を揉んでも、一年間なんの不具合もなく健康でい続けるということは難しい。

なのに、我々はついつい、健康であるということへの感謝を忘れ、あまつさえ幸福になれないことへ不満を抱く。

 

そういうことではいけないのだ。

 

まずは、健康であること。

そのうえで、余剰の全ては成り立っている。

健康であるがゆえに、我々は不満を抱く。

 

そのことを、忘れないでいたいと、強く思う。


卒業試験が終わり、後輩たちに部活を追い出され、引っ越しの日時が決まり。

いよいよ卒業かあとしみじみ思う。

後輩たちとの写真を眺め、改めて、僕は"先輩"という役柄に向いてないと思った。

あるいは、自分の理想とする先輩像ではないというか。

しかし考えてみれば、僕はそもそも先輩スキーな人間なのだ。先達には尻尾を振りがち。
自分から先輩に話しかけて、ゴルフもご飯も麻雀も誘って、そうやって仲良くなった。

そのぶん、先輩からのインタラクトを受けたことが少ない。自分から行くから。

だから"先輩"という人種が、どう後輩に接するべきなのか、よくわからないのだ。

よくわからないし、後輩たちが嬉々として話しかけたくなるような魅力的な人間ではないのだな。僕は。

そんなわけで、なかなか"先輩"を演じるのは、僕には難しい。

先達らしくあるためには、どうしたらいいのだろうね。
時間がない。

1つ終わらせたら、即座に次へ。

休めるときに休まないと絶対保たない5週間。

だけど、1時間だって無駄にはできない。

効率よく。要領よく。そして、抜かりなく。

理解して覚えることに脳を100%使うおかげで、あれこれ考えずにすみ、結果として精神をある程度健康に保てるというのは皮肉な話だ。

あるいはもうおかしくなっているのかもしれないが、そのことについて検討している時間はない。

急がねば。

今日も今日とて眠れない。

さて、日記を書かなかったこの数日間、毎日少しずつ勉強を進めていた。

特に40分の動画講座を20本と、問題演習350問をあわせて3日で終わらせた自分のやる気にはなかなか高い評価をつけたいところだ。

4月に立てた計画からは大幅にずれてしまったが、ほとんどきっちりズレた分で終わらせることができたので、ペースは悪くないのではないかと思う。

が、しかし。ここで問題発生。

卒試の問題が、国試の問題とあまりに離れているのだ。

ぜんぜん卒業試験の問題を確認せずに必死に国家試験対策をやり、それがひいては卒業試験の対策になると考えていた自分のミスで、自分の責任、自業自得の自爆行為だ。

ここに来て採算がおおいに狂った。

正直なところ、本当にやばいと思う。

ここまでストレートで進級を重ねてきたものの、もはやここまで、来年に乞うご期待、そんな未来が間近に見える。

まずは目先の益を取り、安定を担保するために、もっと早急に切り替えればよかった。

しかしまあ、後悔しても仕方がない。ここから、あと7日で、23科目分野の卒業試験の対策をやるしかない。

ビタミン剤を飲んでいるのに口内炎ができたり、右耳の聴力がどんどん落ちていたり、食べ物の味がしなくなったり、情動が不安定になったりと、笑えるほどにメンタルがやられてきている。もうボコボコだ。

それでも、なんとか乗り切らねばならない。

なんとかなってくれ〜。

とりあえずは、この不眠だけでも。
なんとかなってくれないものかなあ。

後輩ちゃんが部活の全体ラインで
「お疲れ様です。
追いコンですが3月17日に行うので、よろしくお願いします。」
と送ってきた。

これを読んだとき、僕は不快に思った。

そもそも6年生の日程を確認していないし(確認された同期はいなかった)、日程を決めるのが早すぎる。
3月17日にしようと思うのですがよろしいですかという確認もない。
それを6年生に伝えてから後輩に周知するでもなく、全体ラインで一言いうだけ。

あまりにも舐めくさっとるなと、僕は思った。

これは全体ラインでそのまま叱って後輩たちの教育にもすべきか、個人に言って聞かせるべきかと悩んでいると、意外や意外、ほかの6年生たちは「了解!ありがとう!」だのと特になんの疑問も抱かずに受け入れている。

僕の感覚が古いのだろうか。

先輩後輩という立場関係は廃れていくべきなのだろうか。

一定の敬意は示すべきだと思うのだが、違うのだろうか。

もやもやするが、スタンダードがわからん。
世間的にはどうなのだろう。

 

友人からブロックされた。

 

最近ツイート見ないけど忙しいのかな、と思ってアカウントを見に行ったらブロックされていたのだ。

非常に驚き慌てて共通の友人のN氏に聞いてみたところ、彼もブロックされていた。

ということは、僕に対するヘイトからのブロックではないかもしれない。

 

いやはや。

 

彼女とは、たしか9年前、某MMORPGで出会った。

仲良くなったあとメル友(懐かしい響き)となり、skypeでチャットするようになり、TwitterとFacebookでフレンドであった。

つい数ヶ月前、一緒に飲みにいったばかりだ。

 

確認してみたところ、Facebookでも検索に引っかからなかったので、きっちりブロックされているようだ。

skypeも切られているか、もうあのアカウントを使うことがないかのどちらかだろう。

 

ネットを介した友人関係というのは、目に見える形で断絶する。

断絶するうえ、相手が望まなければ二度と会うことも、メッセージを送ることもできない。

なかなかに、悲しい。

 

まあ、でも。

 

元気でやってくれていたら、嬉しい。


昨日も今日も、特に記すべき出来事はない。
しかし、せっかく寝る前に一言書くことに慣れてきたので、なにも書かないのはもったいないし、多分書かなくなることだろう。
だから、日記の時間的解釈をすこし広くしてみようと思う。

さて、ここ数週間、再びハマりだしたものがある。コーヒーだ。

まずはコーヒーについての思い出から書いておこう。

19歳の夏、甘いカフェオレをよく飲んでいた。
甘くともコーヒーが飲めるようになったなんで大人になったものだと思いあがり、ある日その喜びに任せて100円のブラックを買った。

はじめて飲んだブラックはとても苦かった。
大人はこんなもんを飲むのかと信じられない気持ちと絶望感でいっぱいだった。
敗北感にまみれながら、ほとんど減ってないコーヒーを僕はトイレに流した。
その日のお昼はコーヒーしか買っていなかったので、サンドイッチは喉に詰まらないよう細心の注意を払って食べた。あんなにサンドイッチが怖かったのは後にも先にもあのときだけだろう。

同年冬。
スターバックスでおしゃれに勉強したい気持ちが日に日に高まっていた僕は、ついにそれを敢行。
バニラクリームフラペチーノではなくコーヒーを頼んだときの緊張感。
結局ブラックのままでは飲めず、ガムシロップをいくつか入れた。

 ようやく大学受験を終えた20の春。
おいしいケーキを出してくれることで有名だった英語教授の部屋に友人たちと遊びに行った。
すると教授は、ちょうどいい豆が入ったんだ、一杯飲んで行きなさいとコーヒーを淹れてくださった。もちろん苦いから好きじゃありませんなどとても言えない。
そして…恐る恐る飲んだコーヒーが、びっくりするくらい美味しかったのだ。
透き通って美しくきらめくその香り高い液体に、いたく感動した。

それからはなぜかすんなりと缶コーヒーも飲めるようになって、夏の勉強期間には友人とインスタントの瓶を4つも空にし、ミルを買って豆を挽くまでになった。

しかしそのときの僕が淹れるコーヒーとは「粉々にした豆をフィルターに入れ、上から湯を注ぐ」程度のものであった。
あたかもインスタント麺でも作るかのように雑に湯をかけ抽出する僕をみた友人に呆れられたのも、いま思えば無理もない。

それからしばらくはコーヒーを挽かない(が、缶コーヒーにはかなりお世話になった)日々が続き…最近また挽くようになったのだ。

現在の話に持ってくるのにものすごい紙幅と時間を費やしたものだ。
そしてここまで書いてなんだが、これからする話と思い出話には特に関係がない。見通しが甘かった。まるでラジオ大阪のポップコーンではないか。

閑話休題。
現在我が家には、以下の器具がある。
ハリオ式。
カリタウェーブ式。
フレンチプレス。
マキネッタ。
4つもあるのだ。これはすごい。
それぞれの特徴を書こうと思う。

まずハリオ式。
これはいまの環境での話で、普遍的にそうであるわけではないと思うが…カリタ式と比べて、抽出時間が短い。そして比較的荒い粉が内側に、細かい粉が外側にある気がする。
あっさりとしたコーヒーを淹れるのに向いている。気がする。

ついでカリタウェーブ式。
紙の目が細かいのか、ハリオ式と比べて抽出に時間がかかる。そのせいもあってか、味がしっかり出る気がする。苦みも酸味も強くでがち。
コロンビア豆を買ったが、やや酸味が強くて苦手だ。カリタで淹れると酸っぱさが際立つ気がする。苦いコーヒーをクリアに飲みたいときはこれ。

フレンチプレス式。
ドリップしないぶん、豆に含まれる油など紙に吸着される成分がガツンとくる。
淹れるのも簡単で、手軽さで言ったらナンバーワンだ。ただ、オイリーなテイストが何杯も飲む気を削ぐ。ドリップされたクリアな味が恋しくなる。でもたまには使いたい。

マキネッタ。
蒸気を用いて一気に抽出する不思議な機械。
これも紙を介さないため、油がガツンとくる。
しかも少量で作るので、味が濃い。
フレンチローストのような濃い豆を買っておらず、いまのところ持ち味が活かせてない。マキネッタで淹れるならドリップかな〜といったところ。あと蒸気圧で爆発しそうで怖い。

というふうに、気分によって使い分けている。

コーヒーの淹れ方や豆のローストに意識が行くようになってからは、味についても敏感になったし、よりコーヒーを楽しく飲めている。

勉強の合間にゴリゴリと豆を挽いて淹れる一杯。
これからも趣味として続けていきたいものだ。

 

ある夏の夜、僕は散歩をしていた。

もうずいぶんと日が早く落ちるころで、強風と相まって外はむしろ寒いくらいだった。

そんな天気柄とは関係なしに、僕はふと星が見たくなって外に出た。

ベランダの、鳩の侵入を阻止するための、風情のないネット越しに見る気分ではなかった。

くろぐろとした空に散って浮かぶ、昔ながらの星が所望だ。

 

大きく息を吸い込む。

夏の青い草や湿った土の匂いのなかに秋特有の、どこかよそよそしく、澄んだ空気が混ざっている。

いいぞ、いいぞ。このまま海辺まで歩こう。ここよりもっとずっと、きれいな星が見えるだろう。

 

いい香りのする松の防風林を抜けて浜辺につくと、満天の星空と、一人の男が僕を出迎えた。

彼も星を追ってきたのだろうか。

 

「こんばんは。いい星の夜ですね」

 

まるで思考を読んだかのように彼は言った。

こんなに星で明るいというのに、帽子を目深にかぶった彼の表情はわからない。

 

「こんばんは。本当にいい夜です。あなたも、その、星を見に?」

 

彼は僕をじっと見たあと(といっても彼の目がなにを捉えているのかは定かではなかったが)、なにも言わずに空を見上げた。

つられて僕も空を見る。そうか、おしゃべりよりも星を楽しもうということか。

 

「あなたの一番好きな星はなんですか?」

 

しばしの沈黙をおいて、波の音に溶けるようにして声が聞こえた。

気づけば彼は僕を見ている。

 

「月・・・でしょうか」

 

僕は別に星博士ではない。

夏の大三角は言えても、それがどこにあるのかは知らない。

知っているのは月と、北極星と、せいぜい金星までだ。あと北斗七星。

 

「なぜ月なのです?星はこれほどあるというのに」

「一番大きいし、もっとも意識する星だからかもしれません」

「月が今の位置よりも遠くにあったら、もっと別の星が好きだったということですな」

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれません。やはり月が好きだったのかも。いや、そうに違いない」

 

僕は自分が本当に月が好きな人間であるような気がしてきた。

 

「あのクレーターの織りなす美しい模様。僕は月の模様も好きです。木星には品がない」

 

もっともらしい顔で付け足す。

もはや僕は自分が月の大ファンであることを誇らしく思うほどであった。

男は月から視線を再び僕にうつして言った。

 

「月はそれほどあなたのことが好きではないと言っていますよ」

 

なにも言えずに僕はまじまじと男を見つめる。

波と混ざり合う不思議な声色で彼は繰り返した。

 

「月はあなたがあまり好きではないそうです」

 

そんなことがあるだろうか。

一体僕が月に何をしたというのだ。

こんなにも優しく光を投げかけてくれるのに、僕は嫌われているのだろうか。

急に落ち着かない気持ちになって、僕は木陰に移動した。

甘い樹脂の香りが鼻腔を満たす。

 

「そういうあなたはどうなんです。どの星が好きなんですか。その星には好かれているのですか」

「私は好きじゃありません」

「えっ」

「私は星が嫌いなんです。寝ようとしても毎晩あきることなく不遠慮に光を投げかけてくる。そのうえ、ときたま落ちてきては私たちの暮らしをおびやかす」

「しかし、人の住む場所に落ちてくる確率なんて」

「確率の問題ではないのです」

 

一陣の風が吹き抜ける。砂が入らないよう目を細める。

 

「落ちてくる危険性をはらんでいるのです。球が数億発に一回しかでないからといって、無数の銃口を向けられたまま生活なんてしたくないでしょう。それと同じです」

「では・・・では、あなたはどうしてここにいるのですか。こんなに星がよく見える場所に」

「私は星ではなく、あなたに会いに来たのです。月に嫌われていると知ったひとの表情が見たかった」

 

からかわれていたのか。

 

「ああ、本当に星は・・・鬱陶しい。それでは、またいつか」

 

そう言い残して彼は去っていった。

 

とたんに波の音が大きくなる。

波の踊る様子をしばらく見ていたが、まるで白銀の泡沫が星のように思えて、僕は砂浜を後にした。

 

空気は湿り気を帯びている。朝は近い。

朝がくれば、太陽が空を照らす。太陽は星々を隠してくれる。

けれど、太陽は僕のことを嫌ってはいないだろうか。

 

いそいそと帰宅したのち、僕は窓に関心を寄せることなく布団に潜り込んだ。

 

やはり月は嫌いかもしれない。

 


僕は千菅さんのイベントに行く。ライブに行く。アニメを観る。ブルーレイを買う。ラジオを聴く。ラジオに投稿する。ファンレターを書く。プレゼントを贈る。

なぜなら、千菅さんが好きだからだ。

千菅さんが好きなのは、千菅さんの歌や、お芝居や、トークに、心を癒され、元気をもらえるからだ。

つまり、僕は自分の充足のために千菅さんを応援しているわけだ。

目的は己の幸福、千菅さんへの行動はそのための手段。ということになるのではないか。



たとえば私財を投げ打って困っている人を助けることはどうだろうか。
それもまた、正しくあることが目的で、正しい人間になるための自己実現の過程、手段のうちに救われているだけではないのか。

無償の愛などというが、これは言外に、無償の愛は善いものであるという前提を含んでいる。ならば、無償の愛であっても、善いことをするための手段ということになりはしないだろうか。

人はつねに利己的である、という命題は、正しいのだろうか。

正しいとするならば、愛とはなんなのだ。
結局、己に利する他者への一定の譲歩、ということになるのではないだろうか。

あるいは、高潔であろうとすること、利己的本質から逃れようという試み自体無理があるのだろうか。



あたかも推しとファンは共に歩んでいるのかのように思っていた。

舞い上がって、思い上がっていた。

推しや、推しの上司の決めた活動内容に、僕たちはただただ、なすすべもなく、黙ってついていくことしか許されていない。
いやなら離れろと言われるまでだし、それはその通りだ。

そのことに疑問は抱いてこなかった。

受け身のままでいても、素晴らしい景色を見せてくれるから。連れていってくれるから。

方針に異を唱えようと思ってはじめて、ファンという存在がいかに希薄で、足場もなく、不安定で、些末なものであるか、気づいた。

自分にとって益することを前提としていたことに気づいて、そんな自分に落胆した。

裏切られただなんてとんでもない。
勝手に期待して、勝手に悲しんでいるだけ。
まるで道化だ。