しいたけ.さんのこちらの記事を今さら読んで。





しいたけ.さんは、ちなみにこんな感じだったみたい。




自分にもそんな日があったかなー
なんて振り返ってみたりした。


去年の3月,4月,5月のブログを
改めて読み直してみた。



緊急事態宣言が出た日だったかな

継続講座を始めたときだったかな

会社を退職した日だったかな







違っていた。








自分が一生、みじめな生き物だと、

自分の汚物感と徹底的に向き合った日だった。




この時は書かなかったけど、よく覚えてる。



明け方近い(会社員の頃から猫リズム)、
真夜中よりも浅い暗さの空に星が見えて

山手通り沿いに住む私からすると
最も交通量が少なくなるその時間帯は、
空気の匂いが澄んでいるような気がして好きで
よく洗濯物を干しながら息をしていた。






自分の本音が、
本当の自分が、


愛や光のようなものならよかった。


あるいは、

か弱く、意志も持たず、
被害者的であるほうが都合がよかった。



けれど、そこで出会った自分は、


愛や光などではなく、


今までの自分に疲弊して
どうにか楽になりたいと強い意志を持ち
しかしその覚悟が無い。


本当に『可哀想なこと』は何か気づけていなかった。


それまでは、
犠牲的に生きることが可哀想だと。
誰かに搾取されて抑圧されていることが可哀想だと。


不自由な自分が可哀想だと。


そう信じていたけれど。
(その投影に、被害者的な自分がハマっていた)



自由を求めて
休息を求めて
"上手くいかなかったとき"

自分にがっかりしたくない。

残念な自分を、
自分に、みんなに、
晒したくない。


リアルな生活でいえば
やっぱり正社員論者で、役職信者で、
バイトでもなんでも『好きに生きる』、

そのためのエネルギーを自分にかけられない、
そういうみじめな奴なんだな、私はって。


今までの挑戦がどれだけ上辺で、
薄っぺらくて、不自由だったか。


自分に心底がっかりする覚悟がなかった。







"答えのない未来に、不安定な状態で突入していく恐怖"



しいたけ.さんの言葉を借りれば
私はその恐怖を自覚することすらしていなかった。



このあとは有料部分になるのだけれど

しいたけ.さんの出した答えというのは





『まず、目の前のチャーハンに愛されよう』





と決め、流れ作業で作っていたチャーハンに
毎回、よろしくお願いします、
としてから鍋を振るうようになったそう🍄


言い換えると、
『今』に必要とされる自分になるということ。

(それまでは、未来に必要とされようとしていたが、前述にあるように答えは、ない)



ちゃこもね、これとおんなじことを、あの瞬間したんだなぁ、と思った。


私の場合はチャーハンではなく、

『みじめな私』を流れ作業的に
無視に近い感じで扱っていたのを

認知して、認識して、お願いします、をしました。


それまでは、どう回避できるか、
なんなら存在しないことにしようとした、
そいつには何も為せない、望む権利なんてない、といちばん遠ざけていた、


『みじめな私』に必要とされる人になろう、となったんだと思います。





大きな夢があったわけではなく
明確なビジョンがあったわけでもなく


自分にすごく自信があった瞬間でもなく
月商が7桁乗った瞬間でもなく




本気で自分を諦めて
"底辺"な自分の存在を許した瞬間に、
その自分でご飯を食べて行こうと決めたのだと。







だから私は、インモラルでも、不道徳でも、

せめて好きと思う、大切に思う人の、
どんな面でも否定したくない。


共感はできなくても、
理解は最後までできなくても、

その人を(あなたを)必要とする、
『今』の一部になりたい。