過ぎし日



 

※(「さんずい+自」、第3水準1-86-66)芙藍


ひゞ入りし珈琲碗カウヒわん
※(「さんずい+自」、第3水準1-86-66)芙藍さふらんのくさを植ゑたり。
その花ひとつひらけば
あはれや呼吸いきのをののく。
昨日きのふを憎むこころの陰影かげにも、時に顫えて
ほのかにさくや、さふらん。

 

              青空文庫 「思い出」から

 

泪芙藍  なみだふらん?

     よく詩をみると サフラン

     サフランに特別の思いがあるようだ

 

   

北原 白秋(きたはら はくしゅう、本名:北原 隆吉(きたはら りゅうきち)、1885年明治18年)1月25日 - 1942年昭和17年)11月2日)は、日本詩人童謡作家歌人

福岡県柳川市に生まれた。柳川は水路が町中を走り、切支丹や南方文化の早く流入したところである。その土地でTonka John(大きい方の坊っちゃん)として育った白秋は環境的に異国情調を身につけていたことになる。中学時代から短歌を作りはじめ、早大中退後は詩人としていち早く名をなした。しかし恋愛問題から神奈川県三崎に転居を余儀なくされる。

、童謡、短歌以外に、新民謡でも『ちゃっきり節』など傑作を残している。生涯に数多くの詩歌を残し、今なお歌い継がれる童謡を数多く発表し活躍した時代は「白露時代」と呼ばれ、三木露風と並び評される近代日本を代表する詩人である。

弟はそれぞれ出版人となり、北原鉄雄は写真・文学系出版社アルスを、北原義雄は美術系のアトリエ社を創業し、従弟の北原正雄も写真系の玄光社を創業した。

 

 

北原白秋は童謡で知っていた

詩人と知ったのは何時のことか。

 

 

彼のことを知るならば・・・

次の文章が参考になる↓

長いので一部だけです

 

わが生ひたち

 

…………時は逝く、何時しらず柔らかに影してぞゆく、
    時は逝く、赤き蒸汽の船腹の過ぎゆくごとく。
                    (過ぎし日第二十)

 

中略


 私の郷里柳河は水郷である。さうして靜かな廢市の一つである。自然の風物は如何にも南國的であるが、既に柳河の街を貫通する數知れぬ溝渠ほりわりのにほひには日に日に廢れゆく舊い封建時代の白壁が今なほ懷かしい影を映す。肥後路より、或は久留米路より、或は佐賀より筑後川の流を超えて、わが街に入り來る旅びとはその周圍の大平野に分岐して、遠く近く瓏銀の光を放つてゐる幾多の人工的河水を眼にするであらう。さうして歩むにつれて、その水面の隨所に、菱の葉、蓮、眞菰、河骨、或は赤褐黄緑その他樣々の浮藻の強烈な更紗模樣のなかに微かに淡紫のウオタアヒヤシンスの花を見出すであらう。水は清らかに流れて廢市に入り、廢れはてた Noskai 屋(遊女屋)の人もなき厨の下を流れ、洗濯女の白い洒布に注ぎ、水門に堰かれては、三味線の音の緩む晝すぎを小料理屋の黒いダアリヤの花に歎き、酒造る水となり、汲水くみづ場に立つ湯上りの素肌しなやかな肺病娘の唇を嗽ぎ、氣の弱い鵞の毛に擾され、さうして夜は觀音講のなつかしい提燈の灯をちらつかせながら、ゐびを隔てゝ海近きおきはた鹹川しほかわに落ちてゆく[#「落ちてゆく」は底本では「落ゆちてゆく」]、靜かな幾多の溝渠はかうして昔のまゝの白壁に寂しく光り、たまたま芝居見の水路となり、蛇を奔らせ、變化多き少年の秘密を育む。水郷柳河はさながら水に浮いた灰色の柩である。
     *
 折々の季節につれて四邊の風物も改まる。短い冬の間にも見る影もなく汚れ果てた田や畑に、刈株のみが鋤きかへされたまゝ色もなく乾き盡くし、羽に白い斑紋を持つた怪しげな高麗烏かうげがらす(この地方特殊の鳥)のみが廢れた寺院の屋根に鳴き叫ぶ、さうして青い股引をつけたはじの實採りの男が靜かに暮れゆく卵いろの梢を眺めては無言に手を動かしてゐる外には、展望の曠い平野丈に何らの見るべき變化もなく、凡てが陰鬱な光に被はれる。柳河の街の子供はかういふ時幽かなシユブタ(方言、はえの一種)の腹の閃めきにも話にきく生膽取いきゞもとりの青い眼つきを思ひ出し、海邊の黒猫はほゝけ果てた白い穗の限りもなく戰いでいる枯葦原の中に、ぢつと蹲つたまゝ、過ぎゆく冬の囁きに晝もなほ耳かたむけて死ぬるであらう。
     *
 いづれにもまして春の季節の長いといふ事はまた此地方を限りなく悲しいものに思はせる、麥がのび、見わたす限りの平野に黄ろい菜の花の毛氈が柔かな軟風に薫り初めるころ、まだ見ぬ幸を求むるためにうらわかい町の娘の一群は笈に身を窶し、哀れな巡禮の姿となつて、初めて西國三十三番の札所を旅して歩く。(巡禮に出る習慣は別に宗教上の深い信仰からでもなく、單にお嫁め入りの資格としてどんな良家の娘にも必要であつた。)その留守の間にも水車は長閑かに※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)り、町端れの飾屋の爺は大きな鼈甲縁の眼鏡をかけて、怪しい金象眼の愁にチンカチと鎚を鳴らし、片思の薄葉鐵ぶりき職人はぢり/″\と赤い封蝋を溶かし、黄色い支那服の商人は生温い挨拶の言葉をかけて戸毎を覗き初める。春も半ばとなつて菜の花もちりかゝるころには街道のところどころに木蝋を平準ならして干す畑が蒼白く光り、さうして狐憑きつねつきの女が他愛もなく狂ひ出し、野の隅には粗末な蓆張りの圓天井が造られる。その芝居小屋のかげをゆく馬車の喇叭のなつかしさよ。
 さはいへ大麥の花が咲き、からしの花もとなる晩春ばんしゆんの名殘惜しさは青くさい芥子のうてなや新らしい蠶豆そらまめの香ひにいつしかとまたまぎれてゆく。
 まだ夏には早い五月の水路すゐろに杉の葉の飾りを取りつけ初めた大きな三神丸さんじんまるの一部をふと學校がへりに發見した沖ノ端の子供の喜びは何に譬へよう。艫の方の化粧部屋はむしろで張られ、昔ながらの廢れかけた舟舞臺には櫻の造花を隈なくかざし、欄干の三方に垂らした御簾みす彩色さいしきも褪せはてたものではあるが、水天宮の祭日となれば粹な町内の若い衆が紺の半被はつぴに棹さゝれて、幕あひには笛や太鼓や三味線の囃子面白く、町を替ゆるたびに幕を替え、日を替ゆるたびに歌舞伎の藝題げだいもとり替えて、同じ水路を上下すること三日三夜、見物は皆あちらこちらの溝渠から小舟に棹さして集まり、華やかに水郷の歡を盡くして別れるものゝ、何處かに頽廢の趣が見えて祭の濟んだあとから夏の哀れは日に日に深くなる。
 この騷ぎが靜まれば柳河にはまたゆかしい螢の時季が來る。
 

あの眼の光るは
星か、螢か、鵜の鳥か、
螢ならばお手にとろ、
お星樣なら拜みませう…………

 

以後省略

 

 

柳川には何回も行きました。白秋の生家? にも行きました

一番の目的は ひな人形を見に

いや ウナギを食べに行ったんですよ。

柳川下りもしましたが日本人は二人だけで あとは多分中国人

船頭さんも苦労していましたよ(言葉が通じない)

 

白秋は 三富朽葉と同じ大正の詩人だと思い

急に読みたくなりました

しかし

あまりにも作品が多いので「思い出」に限定しました

 

今日の空

快晴です(朝)                夕方

   

 

パソコンの調子がすごく悪い

何故だろう

 

 

海月