焚火が、ぱちり、と鳴りました。
迷いの森の夜。淑女は火のそばで言いました。
「彼には私が必要なんです!
それなのに、彼にはそれが伝わらないんです」
淑女はどれだけ彼に尽くして来たかを語ります。
言葉が途切れたころ、かの人は言いました。
「愛とは珈琲のようなものかもしれません」
「珈琲ですか?」
淑女は不思議そうに言いました。
「愛は珈琲(コーヒー)のように」
愛とはなにか。
あくまで焚火のそばで交わされた一つのお話。
たとえば。
愛とは相手の幸せを願うもの、なら。
ゆえに、愛は、
時に迷い
時にすれ違うもの
やもしれません。
純粋な愛があるのだとしたら。
ただ、相手の幸せを願うもの。
そこに自分は存在しない、それは「無私」
いわば。
珈琲のブラックのようなもの。
その苦さに耐えられるものは少ないのかもしれません。
ブラックでは飲めぬゆえ、人は砂糖とミルクを足すのかもしれません。
砂糖は、甘さ。
ミルクは、欲。
砂糖の甘さは、人の甘さ、本来の味を薄れさせます。
入れすぎれば、ただの甘いモノになってしまう。
適度の量であれば、苦味を押さえ、飲みやすくするかもしれません。
ミルクの白は、自らの欲をあらわす色。
ブラックにて、居場所無き自分に居場所を作る。
白くぼかした場所で、一緒にいられる。
調合は人それぞれ。
ゆえに愛の珈琲の味は千人いれば、千人分あるのかもしれません。
そして。
カップの珈琲が飲めばなくなるように。
珈琲は注ぎ続けねばならず。
ゆえに、愛とはその場にて与えるものだけにあらず。
"愛する"とは、愛し続けるもの、なのかもしれません。
気を付けねばならぬこと。
"相手の幸福"、それは自らが想いしもの。
視点が一方的であるがゆえ。
ゆえに、時に迷い、時にすれ違う、のかもしれません。
「私、砂糖やミルクを入れすぎちゃってたのかもしれませんね」
淑女は思い出すように続けました。
「いつの間にか、自分が飲みやすいようにすることしか考えてなかったのかもしれません」
かの人は言いました。
「ただし、苦いだけの珈琲は飲み続けられぬもの。
自らの飲める範囲で愛すること。そのさじ加減が難しいのかもしれませんね(^ ^)」
淑女が森に入ってから初めての微笑で返していました。
焚火のあと(余談です)。
>愛とは相手の幸福を願うもの。
男女愛、夫婦愛、親子愛、師弟愛、自然愛 etc
愛と名のつく、すべてのものに当てはまる言葉として、人外のモノが選んだコトバです。
とうてい、簡単に簡便には語ることできぬもの、やもしれません。
ただ、珈琲のブラックを飲める方。
私が聞き及ぶ限りでは、ダライ・ラマ、マザー・テレサが近いのかもしれません。
その味は、到底、私などには想像もつきません。
普段の珈琲はブラックで飲もうとも、"愛"はブラックではとても耐えられそうにありませんから。
ゆえに、砂糖とミルクを足すのです。
足しすぎて、過去、不味い(痛い)思いをしたわけですが……
焚火が、もう一度だけ、ぱちり、と鳴りました。