相変わらず今回も、これと言って深い意味もない内容となってます。

お付き合いの『いいね』は辞退しますので、次の時にでもお相手ください。ちゅー

 

 

夏休みに入って自宅で勉強&通院が続く。

娘の体調不良が改善されず、以前頂いていた漢方薬をもう一度服用しようかと娘と話がまとまって、遠くの病院へと。先生に事情を話すとしばし問診をしてから、処方箋を頂けた。翌日は朝イチで予約を入れていた婦人科。低用量のピルを服用しているが(娘が)、ここでも先生と話し合いの末、ピルの容量をUPすることになった。宿題が仕上がるよりも、お薬手帳の書き込み量が増える方が早い気がする。

 

帰りに二人で映画を観た。ポケモンなんだけど、子供だらけで(当然だが)驚いた。9時15分診療予約の前に、先に映画館に行ってチケット購入。席をキープしていたので、ゆったりと観られたのだけれど……

 

オープニングの曲が始まる前に私はもう、号泣していた。えーんえーんえーん

ピカチュウと心を通わせるシーンで握っていたハンカチがもう目に移動。その後も色々とエピソードがあって、その都度号泣。横の娘をチラ見するが、平気な顔してんだよ。さり気なく視野を広く見るけど、周囲で泣いているのは老若男女問わず私だけ。滝汗滝汗滝汗涙に冷や汗も追加された。

 

帰りは我が家御用達の、駅地下にある格安のどんぶり専門店での遅い昼食。毒母の主治医が頑張ってくれているおかげで、毒母の凶暴さはかなり減ってはいる。でも、それと比例して、今度は普通の認知症が日に日に強く深く表面化している。凶暴さを押さえる薬と認知症を押さえる薬は相反するものであり、同時に服用することも出来ない。凶暴さを選ぶか、認知症を選ぶかまさに究極の選択状態……ではなく、ここはもう認知症で苦労の方を選択した。凶暴さが減る方が家族は楽だし。

 

 

私が娘の年齢の頃は、アル中の毒母を深夜、探し回ったり、嘔吐物まみれで道路に下半身丸出しで寝ている毒母を背負って、星空見ながら帰宅してたんだよね。あの頃は「絶対に結婚なんてしない。ましてや子供なんて……」と思っていたけど、気付けば夏の蝉よりうるさい娘を授かっていた。50歳を超えて、娘と遅れた青春を堪能できるとは、あの頃は冗談でも想像もしていなかった。今は娘と年に片手以上の映画を一緒に観ることが、とても嬉しい。ポケモンを選択された時はさすがに「え~~っ、この歳でポケモンかよっ!」って思ったけど、娘がワクワクしている様を見たら無碍に断る口実も見つけられないまま観たけど、そこには感動が詰まっていた。前と後ろに座っていた小学生の子供よりもポケモンの名前を知っていた自分が、嬉しいような悲しいような気もした。

 

 

中学生の頃……

親の不仲やアル中、そして私へのイジメで三度も転校した。でも、制服は入学した神奈川の学校のままだった。

「中学に入学するために買ったんだ。どこの中学に行っても着ていればいいだろう」

そう言われて、私は中学を卒業するまでずっと他校の制服のままで過ごした。毒母と話した学校側は、話が通じないと判断して、どこでも「規則なんです」と突っ込まれることもなかった。突っ込んで来たのはいじめる連中だけだった。

 

北海道の寒さが辛いと言えば、登校時に強制的に自分が使っていた「キツネの襟巻」を私の首に有無を言わさず巻き登校させた。そんな中学生は何処にもいなかったし、校則的にもまずいとは思ったが、酒臭い毒母を前に正論を言う教師もいなかった。

 

田舎で、遅れて「八甲田山」の映画が上映された。

クラスメートたちが流行の綺麗な服を着て、映画館へ向かうんだよね。私の家の前を通って。ゲッソリみんな私を見ても知らん顔してくれたのが、嬉しかった。だって私は、学校のジャージを着て、母親と廃品回収してきた木材を冬が来る前にのこぎりでちょうどいい長さに揃えて切る作業があったから。映画に何て行く金も無ければ、着ていく服も無い。少しでも早くクラスメートたちが通り過ぎてくれればと祈りながら作業するんだけど、そんな時に限って毒母が突然キレる。

「テメー、何で満足にのこぎりも使えねぇんだよ!このくそ馬鹿がっ!!!」

八甲田山」を観に行くクラスメートたちは、目の前の私の姿が「あぁ、野麦峠」の女工に見えていたと思う。

 

あれから30年以上の年月の後、自分の娘と年に何度か映画に行けるなんて、この嬉しさは多分、他の誰とも共有できないと思う。照れ

 

 

宿題を手伝いながら、娘と1年前に起きた神奈川県の施設殺人事件の新聞記事を見ながら、話をした。ここでは書けないけれど、かなり突っ込んだ話もした。

学校からは事あるごとに進路の話題が出される。高校2年なのだから当然なのだが……娘の学校は進学校で、私がある機会に学校関係者と話をした際に、進学せずに就職したのは創立以来、ひとりだったそうだ。(家庭の事情で聡明な娘さんだったが、進学を断念するしかなかったそうだ)「どの道に進むのか」と言うよりは「どの大学へ行くのか」的な話がされる中、今も体調が思わしくない娘を見ていてかわいそうに思える時も多々ある。

 

「前、そろばんやってたよね?で、進むのが早くて先生も驚いていたんだよね?大学、無理して行かなくてもいいんじゃないのかな?例えば1年なり2年なり好きなそろばんをまた始めて、体調を立て直して、そこから大学目指すなら目指すでも」

 

娘はキョトンとした表情で私を見た。

「お母さんは大学に行くことも許されなくて、気が付いたら健康も無くしてたわ。人の目なんて気にしなくてもいいじゃん。自分が生きていて楽しいと思えるなら、それがあなたの人生なんだろうし。」

 

そろばんを辞めたのは、車のない私たちが通うには大変だったからだった。

例えば真冬の夕方、暗くなって学校を終えて帰宅する娘。身体が温まる間もなく、私と一緒に氷点下の吹雪の中、そろばん教室へ歩き出す。バスルートから外れていて、徒歩でしか行くことが出来ず、雪が無ければ徒歩25分、吹雪けば40分を超えることもあった。学校の同級生たちは自家用車で私たちの横を通り過ぎていく。私と娘は暑い日も吹雪の日も豪雨の中も、とにかく歩いて通った。帰宅すると、早くてドラえもんのエンディングが見られた。それから晩御飯を食べて、学校の宿題をして、そろばんの課題をやってと大変だったけれど、娘は頑張った。でも、ある日。体調を崩し、それをきっかけに真冬の猛吹雪を自宅の窓から見ながら言った。

「行きたいけど、もう無理」

一緒に教室に通っていた私も辛さは知っていたから、娘に感情的になって反対は出来なかった。三度は「本当に辞めていいの?もう戻れないよ」と訊いたが、娘の意志は固くて首を横に振ることはなかった。

 

こんな風に辞めたそろばんがもしかしたら、今後の娘を助け、居場所を提供してくれるかも知れない。短期間で先に習っていた子供たちをごぼう抜きして、ぐんぐん級をあげて行った努力、無駄にならないかもと思うと、ポケモンの映画と同じくらい泣きたくなる。(これは嬉し泣き笑い泣き

 

来年も再来年も、その先もずっとずっと娘には年相応な楽しみを享受して欲しい。笑って生きていることを堪能して欲しい。

娘の幸せは、娘の持つ秤でしかその値打ちや価値は計れないことに、今更ながら気が付いた。

そして、小説『海蛍』でも書いたけれど、毒親と呼ばれる親がしっかりとした教育を受けていたら、そこまで酷い親に、人間に果たしてなっていたのだろうか?薫が親もろとも捨て去った故郷に戻った時、親に対する憎しみや恨み辛みを心の奥底に押し沈めてしまうくらいの気付き。あれは自分への問いかけだったと今は言える。

 

まぁ、今日の言いたいことは『ポケモンの映画は良かったぜ!!』ってこと。ウインク