娘、夏休み目前で風邪で寝込んだ。

学祭も休んで寝込んでいた。

主役不在の高校の学祭へ私たち夫婦とチワワ夫婦で覗いてきた。

風邪で寝込んでいる娘を置いてと思われてしまうのかも知れないけれど、ちょっと事情があって娘からも「私の代わりに行って」と言われての参加だった。

 

あれから幾日も経つが、娘は今日も酷い咳が止まらず日の半分は寝ていた。もう少しで夏休みなので頑張ると言うが、ここしばらくは学校に行っても昼には保健の先生からか、強制送還されてしまう。病院の薬もちゃんと服用しているけれど、夏休みに入ってもしばらくは自宅での療養が続きそうな予感がする。

 

 

そんな中、夏休み恒例の短歌を仕上げた。青い顔をして官製はがきに清書し、後はこの状態で幾度も見ての推敲をして投函となる。

実は今年の分の短歌は昨年の表彰式の帰りの月夜に完成していた。本人曰く「来年はこれで勝負!多分、これ以上のものは出来ないと思うから」と言っていたが、つい最近、大きな出来事があって娘はその体験を三十一文字にした。

 

短歌は季語がいらない。俳句では季語がないことは致命的になるが、短歌にはその縛りはない。道真公の飛梅の歌に出て来る「東風(こち)」や「梅の花」は季語ではなく道真公の心情を表すものであると言われている。

 

今回の娘の歌に使われる季語となった言葉。有名な言葉を使うか、それとももう一歩踏み込んで、この言葉を詠み振りしてしまうか。元となった白居易の漢詩を前にかれこれ四日、娘と考え続けた。結局、娘が選択したのは有名な方ではなく、詠み振り的な言葉の方だった。こちらの方が文字にしても流れがいいと。明日、投函するとハガキを机に置いて娘は寝た。

 

短歌と俳句の違いを娘と(素人ながら)論じた。素人なので、この会話に解答たるものがあったかは今もわからないが……

 

俳句は五七五の十七文字で

短歌は五七五七七の三十一文字。

俳句はあえて書き並べることはなく、読む側に察してもらうテクニックがいるのかなと。短歌は文字数をフルに使って、その情景や思いを伝えるのかなと言うことになった。故に俳句を作ることができるから、短歌も出来るでしょうはあり得なくはないけれど、根本的に違う訳で双方を作っていくのはかなり難しいんじゃないのかな的な結論になった。今、娘に俳句をガンガン勧めたら、きっと短歌が作れなくなるんだろうなって思った。

 

 

 

リビングのテーブルの上には遠藤周作の「沈黙」の文庫本を始め、JICAの資料など所狭しと置かれる時期になった。この風景が我が家の夏だ。

 

親は資料の整理と必要箇所のピックアップくらいしか手伝えない。時に二人でディスカッションもする。最近は娘もかなり突っ込んだ反論をしてくるようになったので、私は楽しい。

 

夫婦で見始めて楽しみになったテレ朝の「陸海空 こんな時間に地球征服するなんて」で、ある部族がリスザルを獲り、解体し食べていた。サルの頭蓋骨の丸焼きを幼い子供がご馳走だと、両手で大切に抱えて食している。先日、チワワ奥ともこのシーンの話題が出たが、チワワ奥夫婦はこれを残虐だとか可哀そうなどとは決して言わない。「あれって食文化だから」。チワワ奥のその言葉を聞いて、私は嬉しくなった。後日、娘とこの話をして「私たちは平気で牛や豚を食べるが、それは許されてどうしてサルは残虐だと思えてしまうんだろうね」と話を振ると「どうしても受け入れられない文化はある。自分と共有は出来なくとも、違うそれを認めることは出来るんじゃないか」と言った。

 

あの番組を見て胆略的に「いやぁ~っ、残酷!気持ち悪いわぁ」と言う者とは私たち家族はあまり仲良くは出来ないと思う。(努力はするけど)私たち日本人も海外に出れば「黄色いサル」と呼び蔑む者がいることを思えておいて損はないと思ったりした。

 

 

東京へ行った際、当時、小学生だった娘がなめこ(キャラクターもの)が大好きで、東京にしかないショップで、このキャラの品を買って来てと頼まれた。同行してくれた人にそれを伝えると「えぇぇぇっ、なめこ!?やだぁ、気持ち悪いっっっ!!!!」と、最後の最後まで人を小馬鹿にした不愉快な表情をしながら、あんなもの・そんなものと私を罵倒し続けた。

 

当時、神奈川に入院していた毒父の見舞いと身の振り方で月に何度も神奈川へ通っていた私。中学受験を控えながらも、娘は母親不在の家で亭主とふたりで頑張って留守を守ってくれた。情緒面でも他の12歳よりは若干劣る娘は、とにかくなめこキャラが好きだった。東京でしか買えないものを買って行くことで、私は僅かだが娘への贖罪を果たした気になりたかったが、同伴した後のストーカーは最後の最後までなめことそれを買おうとする私、そしてそれを喜ぶ娘を認めようともしなかったし、罵倒し続けた。あの罵倒する表情は生きている限り、私の記憶から抜けることはないと思っている。ああいう人間が国際紛争の火種になるのだとマジで思った。

 

 

 

ある俳優さんがいた。昔、特撮やら刑事ドラマで活躍されていて、私は大ファンだった。彼が出演しているドラマも終了し、彼をテレビなどで見る機会は劇的に減った。有料チャンネルでの再放送で見かけるか、レンタルして作品を見るしか彼と会う術は無くなった。そんな最中、彼の訃報がテレビで流れた。私よりは遥かに年上だが、亡くなるにはあまりに早すぎた。あぁ、久々に彼を見たのが訃報なんて……しばらく落ち込んだ。ある辛かった時代、自分の身も心も支えてくれた人であり、その訃報に身体の一部を切り取られた気持ちにもなった。

 

ネットである方と知り合った。本当に偶然であり、知り合った時はその俳優さんの話題など出てはいなかった。彼のブログで彼もまたその俳優さんが好きだと知って、私は勝手に見知らぬ彼との距離を勝手に縮めたりしていた。彼は博学であり、物事の捉え方が私には斬新だった。微妙な売れ方をしているお笑い芸人がTwitterなどで、世間とは逆の説を訴え炎上している様をよく見るが、彼の思いの書かれたブログは炎上を知らない。彼はなぜ、その考えに至ったのかまでを、実に丁寧に説明をしてくれる。

自分の知識を誇示もしないし押し付けもしない。それだけでも賛美の値は大きくある。

 

その彼が、亡くなられたその俳優さんのアメブロが今も残されていて、そこに毎日、『ペタ』をし続けていることを知った時は、胸が痛いのと熱いのを同時に感じた。もう更新されることのない、主を失ったブログ。そこに彼は「日課なんです」と言いながら毎日『ペタ』をしている。

もしも亭主がブログをしていて、そのまま亡くなったとしたら私は亭主の残したブログに思いを寄せながら『ペタ』をし続けることができるだろうかと考えた。で、私も挑戦し始めたが、これが中々、出来そうで出来ないことだった。日々の生活に追われ、自分の時間ができれば、気を取られ大切だと思っていることでさえ記憶から欠落してしまう。最近は彼の言う「日課」になりつつあるが、これも自分の体調不良や娘のことなどで気持ちがいっぱいいっぱいになって、気付けは『ペタ』を忘れていることも。でも、最近は不思議と「あぁ、忘れた」と自己嫌悪に陥ることはなくなった。自分は忘れていても、彼が押した『ペタ』を見るとホッとする自分がいることに気付いた。

 

この『ペタ』の彼の本名を知ることも、会うこともなく時は流れると思う。互いに何者かも知らぬまま、『ペタ』を押す瞬間、もしかしたら「亡くなった彼の同じ作品を思い浮かべてペタをしているのかも」と思うとワクワク感が半端ないんだ、おばさんは。

 

こうした形の文化を享受できる時代に生まれて、自分は幸せなんだなって思った。さて、これから『ペタ』押してくるか。今日はドラムセットのシンバルでモールス叩いている彼を思い出しながら……

 

互いを尊重し合うと、そこには新たな文化が生まれる。