こうして私がPCに向かっている理由は、息抜きなんだと思う。

通院途中で職場へ向かう人たちを見ると、大変だなと思う反面、羨ましくも思える。

朝8時過ぎに職場へ行き、23時頃まで仕事をしていた自分を思い出す時がある。少なくともあの頃は今のような病気だらけではなく、社会の構成員なんだなって漠然とだけど思っていて、その思想が勤労意欲の源だったのかも知れない。

働くことは楽しかったし、嬉しかった。少ない給料から税金が引かれていたが、自分がこの国を支えるひとりになれたことだけが、妙に嬉しかった。微々たる納税額は私の誇りだった。

 

 

病気を繰り返し、やがて普通と呼ばれる生活も覚束なくなったが、自暴自棄にはならなかった。それは別に私が崇高な思想や理念を持っているからではなく、単に「今は生きることもしんどいけど、ひと月後・半年後・一年後・五年後は問題もどうにかなっていて笑っているに違いない」と、何ら根拠ない思い込みのお陰。

 

茄子の思い出

迷走するヤマトのはなし

上矢印こんな風に笑っている方が絶対に楽しいもんね。(亭主地獄かも知れないが滝汗

 

もしも私が「病気ばかりしてごめんなさいね」と泣いてばかりいたら、亭主にとって帰るべき家庭はさぞかし辛い物だろうと思う。

「自分なんて」「どうせ私なんて」思考は、相手の心を確実に蝕む。

結婚した時点で既に私には病のハンディキャップが多数あったが、亭主がそれでも自分を選んでくれた時点で私は「この男の笑う顔を見続けたいな」と思った。建前、私は主婦であり無職だが、亭主を笑わせるプロフェッショナルに徹することを心ひそかに決めた。

だが、もしもタイムマシーンが存在していて、私のこの決意表明を亭主が知ったのなら、きっと亭主は全力で私の決意を阻止したかも知れない。

 

 

こんな母親の元へ生まれ落ちた自閉症の娘も、この母の「いい加減子育て」のお陰で「(思ったよりも)拘らない自閉症児」になった。

小学校の修学旅行で2000円のお小遣いを許された娘の財布に私は、金融機関で用意した2000円札を用意した。(入手が結構、大変だった)

現地に着いてレジの前で財布を開けたら、見たこともない2000円札一枚があって娘は目が点になったそうだ。2000年生まれの子供たちは2000円札など触れる機会もなく、友達は皆「それ偽札じゃないの!?」と騒いだそうだ。ウチの母親なら白い紙に色鉛筆で適当な絵を描いて偽札を作りかねないとも思ったそうだが、本物の札を前に母の画力ではそれはあり得ないと思ったそうだ。やがて、レジのおばちゃんが「あら、2000円札なんて珍しい!」と言い出し、担任も

「また、お前のかーちゃんやったのかよ」

ではなく、私の斜め上の教育方法に大きくため息を吐いたとか、吐かなかったとか。チーン

変化を好まない、だから変化を与えないように努力する親が(私の周りでは)多い中、万事がこの調子なもので、娘も土壇場での予定変更事案くらいでは動じなくなりつつある。これは親の教育の賜物と言うよりは、この母親を頼っていては絶対にヤバイと肌で感じているのかもと思う。

 

 

で、結婚当初、亭主を笑わせようと企てた私は、娘を産んだ結果、自動的に手下が増えた。夜、仕事を終えて帰宅する亭主を娘とふたりでパンストを被って出迎えたり、新聞紙を丸めてその上から白い紙でくるんで人の顔を描いて玄関の天井から吊るすとか、保育園児の娘と連日、作戦会議を開いた。夫婦で馬鹿をやって笑う様を見て、自分も乗り遅れる訳にはいかないと思ったのかも知れない。気付けば娘は企画をプレゼンし、身体を張って亭主を笑わせることでこの家でのポジションを得た。

 

娘も亭主が笑うことが楽しくて仕方ないようだった。亭主を脅かす備品を作りながら、私は一貫して娘に言い聞かせたことがあった。それは……

「お母さんはお父さんが好きで結婚したんだ。
これからもしもお前が、“反抗期”なんて言葉を言い訳にしてお父さんのことを悪く思ったり、臭い・汚いなんて騒いだりしたら、私は何時でもお前を家から叩き出すから。他人に対して『嫌い』と言葉にするからには、相当の覚悟が必要な訳で、親であっても嫌いなんて言われるとへこむんだ。お父さんに許し難い態度を取ったりしたら、その時はここに居場所はないと思え。すぐにこの家を出て働いて暮らせ。自立しろ。反抗期は人を傷つけても許される免罪符じゃないから。
無理して好きにならなくてもいい。でもね、日頃のお父さんの頑張りを見ていたら、自ずから言っていいこと・いけないことはわかるだろ?」

 


ある時は、天井から吊るす予定の河童の首を作りながら、そしてある時は、トイレットペーパーが使えないように繊細に糊付けしたりしながら(全て亭主のための工作物)私は娘に自分の思いを伝えた。娘は今、腹が立つくらいの「お父さん子」になった。

 

 

上矢印上矢印先日、風呂に入った亭主。下着やタオルを揃えて浴室に消えた隙に、タオルはハンドタオルの小さなものに、下着は全て撤去しこの100均で買った河童の被り物だけを置いた。で、娘と風呂場の観察を開始した。

母「お父さん、どうすると思う?」

娘「裸であれだけ被って出て来る」

母「きゅうりも置けば良かったね」

 

何かが「ある」から幸せと言う訳ではないのだと、股間を押さえ立ち尽くす亭主を見て思った。何かが「ない」から幸せではないと言う訳ではないのだと、必死にハンドタオルを縦横に引っ張る亭主を見て思った。

幸せは与えられるものではなく、そこにあるもので感じるものなのではと思う。

 

 

で、やっと本題だけど……

 

娘が生まれて数か月経ったある日。亭主が「気持ち悪い」「フラフラする」「お腹が痛い」など言って寝込むようになった。仕事を休むことが嫌いな亭主は、私が保険証を差し出しても頑として病院に行こうとはしない。

亭主は日に日に食事も取れずやせ細って来た。職場に行くことすら出来なくなり近隣の病院を巡ったが「風邪」「過労」「胃腸炎」の診断をされ、薬を貰っても改善はしない。少し離れた入院設備のある病院へ行ったら「取りあえず入院」となった。

様々な検査を行い一週間もしたら結果が出るからと病院から言われたが、約束の期日を過ぎても病院から説明は何もない。看護師に説明を求めてもはぐらかされるようになった。それでも亭主が元気になるのならまだいい。しかし、亭主は更に顔色も悪くなり吐きまくる。亭主は何をも受け付けなくなり、言葉も出なくなった。

「どうして説明がないんですか!ここまで衰弱して、この人の身体に何が起きてるんですか!?」

ナースステーションに怒鳴り込んだ私。看護師たちは「まぁまぁ」と私を静めようとするが、今日は金曜日で明日明後日は休みで何の処置もされない可能性がある。私もこのままでは引っ込みがつかない。それから1時間以上待って外が暗くなった頃、主治医がやって来た。

「えーとですね。これ、これね。食後の神経痛ですよ」

まるで大病でなくて良かったですねと言わんばかりの表情で医師は言った。

「私、この歳まで食後の神経痛なんて聞いたことも見たこともないわ」

私はついに大声を出した。もう警察を呼ばれて連れていかれても、猟友会を呼ばれ撃たれてもいいと思った。

「血液検査も他も全て異常がないですしねぇ」

「素人の私が納得できる説明、出来るんでしょうね?」

医師は押し黙った。

「…会計お願いします」

「え」

「ここに置いても原因が分からず死ぬだけでしょう?私はこの人を絶対に死なせたくはないから、生かすためにここから連れ出します。つーか、食後の神経痛じゃ自宅にいても死なないでしょう?」

 

荷物を抱え、亭主を抱きかかえ私は暗くなった雨の国道脇に立っていた。病院を出たものの行く当てもない。亭主はもはや、自力歩行も覚束ない。

「ねぇ、私が出産したあの総合病院へ行こう。大丈夫。私が絶対になんとかするから。アンタを死なせたりはしないから。また一緒に笑うんだから」

亭主の同意を聴かないまま、私は着替えの入ったカバンをブンブンと振り回し、タクシーを止めた。その総合病院の名前を言い急いでくださいと頼んだ。受付終了まで際どい時間だったが、運転手さんはただならぬ様子と察してくれて、雨の中、アクセルを踏み込んだ。加速で亭主の顔は歪んだ。

 

 

「この人、大きな取り柄なんてないです。でも、仕事だけは休まず家族のために働いていました。高熱が出てもお腹が痛くても休むと迷惑が掛かると、薬を頬張りながら仕事に行くんです。この人が動けない・苦しいって言うのはよっぽどのことなんです。

原因を特定してください。治療してください、助けてください!!」

1分で受付終了の総合病院に駆け込み、取りあえず通された内科の診察室で私は石に懇願した。亭主はもう、意思表示が難しくなっていたから、私のひとり語りだった。

医師も亭主の尋常ならない様子に、その場で入院をさせてくれた。

 

連日の検査が続き、もう亭主の姿を見ることが辛くなったと思った頃、医師から

「横隔膜ヘルニアです。このままでは死にます」

と、言われた。

亭主は横隔膜に穴が開き、そこから上に向かって胃や腸が入り込んでいた。これでは何も食べられないし、肺も胃や腸に圧迫され呼吸も難しくなることなど、検査結果を前に丁寧に説明を受け、手術でその横隔膜の穴を塞ぐしか生きる術はないと言う。私は手術の同意を即答した。

 

横隔膜ヘルニア、実は生まれつきと言うのが多いそうで、大人になってから発症するのは珍しいそうだ。亭主の入院後、私はネットで調べまくったが、検索して真っ先に出てくるのは乳幼児とネコの横隔膜ヘルニアばかりだった。当時、複数のネコを飼っていて私は掛かりつけの獣医さんを亭主のセカンドオピニオンとして意見をもらった。獣医のA先生はあくまで「ネコの症例だけど」と前置きしながら、いつでも詳しく説明してくれた。真剣になるとA先生は「ご主人の後ろ足の付け根のね」とか「前足の付け根がね」、更には「しっぽは……」と説明でヒトとネコが混在していた。

 

 

大掛かりな手術を経て、亭主は無事退院し仕事に復帰できた。もう少し休めばと思ったが、人員が足りない中、同僚のことを考えると寝ている方が精神衛生に悪いと傷を押さえながらの復帰だった。

 

 

で、やっと今回のブログの核心部です。

実は亭主がなってしまった、この大人の横隔膜ヘルニア。どうやら私が原因らしいと後日、気付いた。

 

私が病気持ちだからと言って「私がいるばかりに……」なんてやられたら、亭主はたまらないと思った。もしも、私がバリバリ働いていて、亭主が心ならずも病気になったとしたら私は亭主と別れる選択はしないと思うからだ。自分が病気を持つ配偶者に見切りをつけて別れる選択をする人間ならば、大いに自分の不幸を呪い悲劇を演じればいいのだ。でも、もしも自分はそんな配偶者であっても別れたりはしないと思うのなら、相手が自分を受け入れてくれることもまた素直に受け入れるべきではないだろうか?

だから私は病気の自分を選んでくれた亭主のために、亭主を笑わせる、家庭が楽しく感じられるプロになるのだと決めた。

普通の家庭では風呂に入れば、奥さんが洗い立てのバスタオルと着替えを用意してくれるのだろうが、我が家ではハンドタオルと河童の被り物だ。

亭主は結婚してから笑い続けた。笑って苦しいから、いつでも横隔膜を押さえるようにして「ひーひー」と苦しそうに笑っていた。これがほぼ毎日20年続いたのだ。元々、横隔膜に異常などなかった亭主は20年に渡り妻から横隔膜へ地味にパンチを受け続け、ついに穴が開いてしまった説がほぼ間違いない。「物には限度」の言葉を私は急遽、自分の座右の銘に加えた。

 

亭主を笑わせるプロ、実は亭主を病院送りにしていた。

 

手術で横隔膜を補強した亭主の横隔膜攻撃は、娘とふたりで今も続けられている。

亭主は逃げることもなく、家族と共に笑い続けている。

このことは亭主に言わぬまま、私は生涯を終えることになると思う。

 


今、ここにある幸せを私は感じ上手になりたい。