痴呆母の相手で疲弊して、こうして文章を書くことが億劫になりつつあるので、危機感感じてリハビリを兼ねて好き勝手に書きます。

たぶん、「意味わかんねー」って人の方が多いと思うので、読み飛ばし&お付き合い「いいね」なしを推奨です。

 

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月曜の夕方、何かのはずみで変えたBSチャンネルで、昔放映していた『特捜最前線』の再放送を、それも、初期のもの……紅林刑事が出ていないどころか、紅林役の横光さんがゲスト出演しているモノを見つけてしまった。

もう即、途中だったけれど、そこから録画開始。今後も録画予約を入れた。

ん、今、確認したらえらい飛ばしてるな、これ。40話から42話、で48話から52話!?

で、54話の「ナーンチャッテおじさんがいた!」で終わり??え、あ゛っ!?チーンチーンチーン

 

 

まだ、高校生の頃だった。

私はこの作品にハマって毎週、欠かさず見るようになった。ビデオデッキなんてまだ、そう簡単に普及している時代でもなかった。お大尽の家庭にしかなかった代物だった。20万以上いや、30万近い値段だった。貧乏人は身内が危篤でも、その時間にテレビの前に正座待機するのが当然であり、せめてもの抵抗はカセットでのドラマ部分の録音だった。(まぁ、親のどうでもいい声が入ったりするんだが滝汗

 

 

その当時、週刊テレビガイドの欄外に文通コーナーやら「譲ってください」なんてコーナーがあって、実名や住所を出しての告知が可能な大らかな時代でもあった。

ど田舎に住む自分に共通の趣味を持つ同年代の友人などいるはずもなく、私は躊躇うことなくこの欄外に、特捜友達を求めてハガキを出した。

しばらくしてハガキは採用され、1000キロ以上も離れた所のひとつ年下の女子高生から手紙を頂き、彼女と特捜を語る日々が始まった。

 

今考えると、この出会いは自分の人生をいい方向へと変えてくれたと思う。

簡単に電話など出来る距離でもなく、私たちはひたすら手紙のやり取りをするしかなかった。

互いに大好きなこのドラマを見て、余韻の残るうちに脚本の良し悪しや、この脚本で今回の主役の刑事は生かされていたか、効果音や音楽の使うタイミングや選曲の良し悪しに、カメラアングルなど、もう世の中の姑・小姑を寄せ集めたような重箱の隅をつつくような手紙、いや、文章、論文であった。

 

水曜10時からの放送を見て11時から感想を書き始める。可愛い便箋なんてクソも書けないから、いつの間にかレポート用紙を使って重量オーバーから気付けば茶封筒でレポート用紙30枚はザラに書いて相手に送っていた。互いに相手の文章が楽しみで、週明け、学校から帰るとポストにずっしりとした茶封筒が入っているのを見て、心躍った。

 

彼女は頭のいい、感性豊かな人だった。

私など想像も出来ない視点から特捜をみていて、「脚本家のくせ」と称して、長坂さんやら様々な脚本家の他番組の内容にも切り込むようになっていた。引きずられるように私も長坂ファンに落ちて行った。(彼女は塙ファンだった)

限られた時間(一週間後の次の放送まで)で、思いの全てを手書きでレポート用紙何十枚も苦も無く書く作業を数年続けた。気付けば私は駄文ではあるが、長文など苦にもならない人間になっていた。これが後に娘の作文の添削に役立ったのだから、人生って本当にわからないもんだと今は思う。

 

人気が出ていた西田敏行を田舎訛のある、滑稽な刑事にしたのは安直すぎると激怒したものの、「ナーンチャッテおじさんがいた!」で、高杉刑事が電車内で犯人と(やっと)遭遇した瞬間、やっぱこの人は必要だったと深く思った。

「乙種蹄状指紋の謎!」は、陽炎漂う中、船村刑事と吉野刑事の再会シーンは感動で、レポート用紙50枚は超えたと記憶している。

彼女との黄金時代は「神代・櫻井・橘・船村・吉野・紅林・叶」時代だった。番外かも知れないけれど「蒲生さん」も外せない。あれは長門さんだからよかったんであって、他の人ならゲストって意識しか持てなかったと思う。

 

ここまで、付き合いで読んでいる人。

この先、もっと分からなくなりますんで、この辺で諦めてください。話は読み手を無視して、勝手に暴走し続けます。

 

オープニングは森山周一郎より中江真司が好きだったし、スポンサーの意向でマイク片手に現れた五木田さんを見た時は、彼女と「下り坂始まったのかな」ってやり取りがあった記憶は鮮明にある。西田健や織本順吉が予告に出ると、彼女からは速達で手紙が届いた。

帰って来たウルトラマンで西田健にいいイメージを持たぬまま育った訳だが、彼女の存在で私は西田健の素晴らしさを知ることが出来た。

 

地上波の再放送は20年以上前からやらなくなった気がする。(北海道は)

最後の地上波での放送は、番組内に写り込む風俗街の『トルコ風呂』のネオンを消すために画面の三分の一から半分を青くカットされた。あたかも放送事故のようなその画面に、もう放送は無理なんだろうなと思ったら、その後すぐに特捜の再放送は打ち切りされた。

 

実はネットで熱く語る方々の中で殆ど話題に出ないことがある。それは、あの当時、番組スタッフやプロデュサーや俳優さんたちが公認していた「特捜最前線ファンクラブ」の存在だ。

これもテレビガイドの欄外がきっかけだったはず。当時、新宿にいた某さんがファン数人で撮影所を訪ねたことがきっかけになり、撮影所への出入りを許され、そこで写真なども撮影し放題で、ファンクラブの会員にプリント代+送料だけで送ってくれた。(30年以上昔)俳優さんたちに顔や名前も憶えられて、たまにやっていたテレ朝の番組対抗ボーリング大会(2時間枠で放送してたな)に、出入りを許されたりもしていた。荒木さんや夏さん、あの当時のメンバーだった方々が直接、メッセージを書いてそれが送られても来た。

私は北海道だったから会報を手にするだけだったが、TVガイドよりも早い情報もあったので、嬉しかったし重宝もした。二番煎じのグループも出来たけれど、スタッフからの信頼度は元祖の方が上で情報量も格段に違った。後に毒母に勝手に処分されてしまい、残念でならない。処分された資料の中には、荒木さんが徳川家光役に扮した写真や、夏さんが加入した時の写真もあった……チーン

 

 

彼女とはGメン75も語り合った。蟹江敬三演じる望月源治と、錯乱状態で逃げ回る島かおりの話題になると、レポート用紙は更に二割増しになる。あの作品の蟹江敬三は、他の追随を許さない演技だと思っている。源治が出た夜は怖くてトイレに行きたくなくなったし。笑い泣き

 

 

 

同時期、実はウルトラセブンのファンサークルにも在籍していた。これも週刊テレビガイドの欄外告知で加入した。全国から告知を見た者が主催であるFさん(男性)に手紙を出し、彼がそれをまとめて(主にセブンに関する話題が中心)月に一度、会員に発送してくれる。

セブンを中心にウルトラシリーズ、そして特撮、主催者の好みで特捜最前線の話題で盛り上がった。

彼のすごかったところは、当時、安易に買えなかったビデオデッキに落胆することなく、何とカセットレコーダーで毎週ドラマを録音し続け、更には番組最後に流れた予告編だけをカセットテープにまとめ上げていた。持っていないことを嘆き不幸だとネガティブ思考など、彼には毛頭なかった。何かを好きになるということは、ここまで気持ちや思考を高揚させるのだと、私は彼から学んだと思う。

 

実は私がいた田舎の高校の割と近くににセブン役の森次さんの卒業校があって、そこ出身のクラスメートがいて、森次さんの名の入った学校の文集のようなものをゲットして、そのコピーを彼に送った時は盛り上がった。その後、私はそれがきっかけで、その土地で暫く働き暮らすこととなった。岡山のFさん。連絡取れないかなって今も思う。お互いにいい年になったけど。ニヒヒ

 

特捜で仲良くなった彼女とは、実は毒母がアルコール中毒で暴れた際に色々とやらかしてくれて、一切、連絡が取れない事態になってしまい現在に至る。今でも彼女と会って特捜の話をしまくりたいと思う。特捜最前線2012 爆破0.01秒前の女』と『特捜最前線2013〜7頭の警察犬〜』はきっと彼女の中ででも「あれは特捜最前線を名乗らせるべきではない」と捲し立てるだろうと思われ……ニヤニヤ

 

え、まだ頑張って読んでくれてるのですか!?

話は更に迷走しますよ、ほんと。

 

 

話は中学生の頃に飛ぶ。

 

同じ年のいとこの「ちひろちゃん@仮名」がいた。北海道内でも移動に数時間かけないと会えない距離に住んでいて、話も弾むし仲も良かったけれど、会えるのは滅多になかった。

月に一通前後やり取りのあったちひろちゃんからの手紙の三分の二は、全日本プロレスの鶴田の話で埋められていた。ちひろちゃんはジャンボ鶴田の大ファンで、毎月、彼にファンレターを出していた。中島体育センターで全日本の試合があると、自営で金回りのいい身分をフルに使って、いつもかなり前の席でプロレス観戦をしていた。

ある試合観戦直前、私はちひろちゃんから手紙をもらった。

中島体育センターに試合観戦に行くために、新しい白の靴と服を買ったのだと書いてあった。「鶴田さん、見てくれるかな」と、乙女な内容だった。

で、試合が終わったであろう9時を遥かに過ぎた頃、ちはるちゃんから泣きながら電話が来た。

「鶴田さんのために買った白い靴と服が、飛んできたブッチャーの血でぇ……」

以来、ちはるちゃんはブッチャーを親の仇以上に敵視をするようになった。

 

実は時を同じくして、私は新日の方を興味深く見ていた。神奈川から親の別居で引っ越し北海道へ来たものの、連日のイジメで学校にも行けなくなり、親はアル中で騒ぐしで心は八方ふさがりだった。ほんとにあと一押しされれば、自殺もありだったと思う。そんな精神的に限界に近かった夜、私は偶然変えたチャンネルで、金曜8時新日のリングで初代タイガーマスクのデビュー戦を観た。アニメさながらに宙を舞う姿に、私は死にたいことを忘れた。もう、その日は口もきけないくらいに感動したことを覚えている。スカイ・ハイの曲で登場するミル・マスカラス以来、私はプロレスにくぎ付けになった。

イジメで世を儚むほどだった自分は、タイガーの空中殺法を見て、もっと生きて彼の試合を観たいと思った。死ぬ寸前だった自分が、毎週金曜8時のために死ぬことを引き延ばした結果、いつの間にか(現状は何も変わらなかったが)死にたいゾーンから脱却出来ていた。

 

ちひろちゃんにタイガーの話を手紙にしたら、ちひろちゃんから私が出した手紙の三倍量の返事が届いた。料金が基本を超えて超過切手が貼られていた。そこには、全日と新日に分かれた理由や正当なプロレスファンの道を歩む気があるのなら、あなたは全日を応援すべきであると細かな字で多くの例えを使って書かれていた。でも、彼女が熱心に私を説得する程、私の気持ちは彼女の意図する鶴田ではなく、ドラゴン藤波に向いていった。滝汗

でも、それを言うと確実に角が立つから「私はテリーとドリーのファン」と言うようにした。

 

後に成人後、私はちひろちゃんと同じ土地に住むことになり、週末はちひろちゃんは私のアパートに来ては散々飲んで鶴田と全日を語っていた。

時は過ぎて、私の出産一か月前に鶴田が亡くなった。ちはるちゃんは泣きながら電話をくれた。3時間くらい話したと思う。でも最後の1時間はなぜか渕正信の話題だった。

その後、ちはるちゃんは某宗教に没頭し、親から縁を切られ今も行方が知れない。また会って、寝ずに鶴田の話がしたい。

 

 

月曜、娘とカラオケに行った。

娘は今どきの高校生らしくジャニーズやらアニソンで盛り上がった。私は何となく盛り上がりに欠けながらも、カラオケに来たらのお約束の「マイティジャック」や「トリプルファイター」「アイアンキング」「TACのうた」「キャプテン・ウルトラ」「赤影・忍者マーチ」「河童の三平・妖怪大作戦」を唄ってきた。アニソンでは「キックの鬼」。これは名曲だと思う。「怪獣王子」はいつも帰宅してから、唄えばよかったと思い出す……

で、DAMカラオケの「マイティジャック」の唄の間に画面に繰り広げられる奇妙な寸劇のようなもの。あれっていつも不快になる。悪の組織であるQって、若い女をさらって手を縛りSMショー的なことをする集団ではないんだけどなぁ。あれって絶対に「マイティジャック」を知らないし、知ろうともしない者が間に合わせで作ったものなんだろうなと思うと、悲しくなる。

 

 

特捜最前線ってドラマで1000キロ以上も離れた友人と、何十枚もの手紙のやり取り。

鶴田の死で泣きじゃくるちひろちゃん、最後は「渕正信ってこれからも応援したいよね」って言って電話を切ったあの日……

多くが思い出になってしまったけれど、これらがなければ今の自分は確実に存在しなかったと思う。

 

 

次回から、フツー状態に戻るかも知れません。

ここまで読まれた方、お疲れ様でした。そしてありがとうございました。