『海蛍』は特別な趣向を持った方に向けられた不定期連載小説です。

お付き合いの「いいね」は必要ありません。

次回、普通のブログupの時に、またお付き合いください。

 

*****

 


「は、はぅはっ……」
車椅子の上で突然、引きつった声にならぬ声を上げた老人に気付いた瀧田は
看護師との会話を一方的に打ち切ると慌てて、その老人の元へと駆け寄った。
普段は静かな薫のあまりの狼狽ぶりに、廊下にいた他の者たちも思わず振り返る。
「どうかしましたか、橋本さん?」
瀧田は膝を折り車椅子の薫に視線を合わせると静かに微笑む。
「は、はっは、は……」
気管切開をし、腹腔内に拡がる癌に僅かな体力も奪われた薫には、自分の思いを
言葉にする術がない。
薫の残された左手指先が小刻みに震える。全身全霊で必死に何かを伝えようとする様に、
瀧田は薫が指すその先を見る。
「あ……」
廊下の隅に転がった古い万年筆に気付くと、瀧田はそれを大切に拾い上げる。
「橋本さんの宝物」
満足に動かないはずの手が、震えながら瀧田の手へ向く。
そして、それにやっとの思いで触れた。
「ありがとうございます」
看護師は瀧田に礼を言った。
薫は受け取った万年筆を震える両手で拝むように受け取る。
薫の口からかすれた声らしきものがこぼれ出る。
何を言っているかはもう、誰にも分らないが、それが『ありがとう』の意味で
あることは理解できた。深い皺の中に埋もれた薫の目から涙が滲む。
「さぁ、宝物を手に少し病棟内をお散歩しましょう。私がかわります」
瀧田のその言葉に看護師は頷き去った。
もはやその用途を果たせないであろう古びた万年筆を手に、嬉しそうに頬を涙で
光らせたまま、薫の乗った車椅子は再び静かに押され進み始めた。


「鴨川、今日も穏やかですね。先生」
周りに誰もいないことを確認して、瀧田は薫を『先生』と呼ぶ。
6階の大きな窓から鴨川をふたりで見つめた。

 

薫は日に日に食が細くなっていく。
自分で起き上がることも難しく、誰かの手が無ければ寝かされたままの状態だ。
今日は久々に薫がペースト状の食事を僅かだが口にした。
主治医である真一の判断で、車椅子で病棟内を散歩しようということになった。
柔らかな午後の日差しが心地よいのか、薫は手のひらや指先で何度も万年筆の感触を
確かめるかのように楽しんでいる。


昨日は誠とその家族が面会にやって来た。
明るく気丈に振舞っていた誠も、病室を出ると同時に壁に身を任せるようにして
脱力し座り込んでしまった。
妻の美幸も子供たちも誠の身体にしがみつくようにして声を殺し泣いた。
枇杷の会のメンバーも時間を作っては顔を出す。
薫を物言わぬ老人扱いをせず、自分が関わった症例などを細かに話している。
その様子はまるで子供が親に
『ねぇ、ボクね、こんなことが出来るようになったんだよ』
と、自慢げに誇らしげに語るかのようだった。
何も言わなくとも、薫がそこにいてくれるだけでよかった。
そして、薫が寂しくならぬようにと、薫を知る誰もが黙ってはいられなかった。
しかし、口にしないが、誰もが感じていた。
薫に残された刻限は、あと僅かだということを。


この車椅子での散歩を最後に、薫は二度と起き上がることはできなくなった。
そして、薫の意識混濁が始まった。
薫の希望だった延命措置の拒否は守られ、最低限の鎮痛剤だけが決められた
時間ごとに注入されていく。
苦痛を取り除く量の鎮痛剤は、意識をも奪う。
薫は自分は出来得る限り死と向かい合いたいからと、痛みを伴う最期を望んだ。
『日向大佐が我慢されたんです。
私もせめて大佐にお会いする時が来たら、逃げることなく死と対峙したいです』
真一は薫との約束を、目を背けることなく忠実に守り続けた。
それが真一の薫に対しての誠意であり、恩返しでもあったのだ。

 

月のない、星が囁きあうような静かな夜だった。
薫の個室には真一、誠と家族、そして枇杷の会の教え子たちが集まっていた。
手足は細り、体温も次第に下がり始め教え子たちが、その手足を摩り続ける。
自発呼吸のみで酸素吸入をしてはいない。
時折、息苦しさからか、薫は切なそうに口を開きパクパクとさせる。
ここに幾人もの医師がいても、何もすることがない。
ただ、薫が死を迎え、旅立つことを見守ることしかできないのだ。
苦しみ、何度ももがく薫。
真一は何度も薫に薬剤注入をして、その苦痛を取り除こうとしたが、寸前で
その動きを封じ続けていた。


生まれてからずっとずっと、苦しみの多い人生だったと思う。
日向との出会いがあったからこそ、人を恨むことを忘れ、誰にでもその愛を
惜しむことなく与え続けられたのだと思う。
『コーヒー飲みませんか?』
『一緒におにぎり、食べましょう』
『今月もお世話になりました。バイト代です』
薫の穏やかな声が聴こえてくる。


「もう、いいんですよ。橋本先生……」
真一がポツリと呟いた。
薫の呼吸が小さく荒くなる。
心拍数は減り、その間隔も不規則。
それでも薫は最大の苦しみの中で、日向から与えられた命を最後の最後まで全う
しようとしている。
何かを決心した真一は背筋を伸ばし、深呼吸をする。
そして、病室に響き渡る大きな声で言った。
「橋本衛生二等兵に命じる。
速やかに日向大佐の元へ行き、戦争が終結したことを確かに伝えよ」
真一の威厳ある声が病室に響く。


動かなかった薫の手が微かに動く。
四指のない右手が、小刻みに震えながら動き出す。
白く血の気の失せた手は時間をかけて、こめかみに触れた。
「先生、敬礼……してるの?」
瀧田の言葉に皆がハッとした。
苦痛に歪み続けた薫の顔が、穏やかになる。
心音は静かに刻みを緩めていく。そして不規則だったその音はついに途絶えた。
真一の命令を携え、薫はやっと日向の元へ旅立った。
日向が亡くなり、既に70年もの月日が経っていた。


誰も何も言わない。
ただ、誇らしげに敬礼したまま絶命した薫の姿を、その場にいた者達は見続けた。

 

2017,3,4

 

*****

 

ついにこの時を迎えました。

ちべた店長の作品の中の「三上先生」と「橋本のじいちゃん」を見て、私は二つの光景が

突然に何の脈略もなく浮かびました。

今日書いた分はそのふたつのうちのひとつです。

真一の機転は薫だけではなく、そこにいた多くの者達の心をも救ったと思います。

この話の最初に描いた部分がここで繋がります。

でも、今になって読み返したら多少、ずれた部分もあったりしました。

そこは追々手直しをするということで、どうかお目こぼしを。

 

今夜は無印で買ったレトルトカレーを一人で食べながら、薫の通夜をしてます。

あと少しで完結します。

薫のお願いを引き受けた真一が最後の活躍をします。

あと、意外な……