『海蛍』は特別な趣向を持った方に向けられた不定期連載小説です。

お付き合いの「いいね」は必要ありません。

次回、普通のブログupの時に、またお付き合いください。

 

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「この部屋と自宅の本。
どうしようかと心配していたけれど、皆さんが貰ってくれて助かりました」
がらんとした本棚と部屋を見回し、薫は笑った。
この日は朝から真一だけが薫とふたりで作業をしていた。
「私もたくさん頂きました。特に私は本だけではなく……
ここで学んだ6年間を忘れることなく、ここでの出会いと学びを土台にして
私は私の居場所を作ります。いつまでも先生が誇れるような教え子でありたいです」
真一は、改めてありがとうございましたと深く一礼した。
「君に……君たちと出会えて本当に私は幸せでした。
正直、最初私は自分に大学の講師なんて務まるのかと、疑問にさえ思っていました。
私が不甲斐ないばかりに、大切なことを伝えられないまま送り出してしまった
学生も多くいました。今も申し訳なく思っています。
けれどもあなた方は、最後の最後に私に希望を与えてくれました。
こんなにも清々しい気持ちで医学の道から退けることに、私は感謝するばかりです」
薫が差し出したコーヒーを両手で受け取ると真一は、それをじっくりと味わうように
口にした。
「私の相手をしてくれるのは嬉しいし助かるけれど、君の準備は大丈夫なのかい」
薫は真一に眼差しを向ける。
なんとなく薫を直視するのが憚られた真一は、整理棚を撤去しくっきりと濃淡差
のできた床に視線を落とした。
負けることが嫌いで、人から目を逸らすなど本来はあり得ないのだが、薫が
相手だとそんな気も起きない。
慈しまれて育った者は、慈しんでくれた者に侮蔑の視線をくれたりはしない。
唯一、打算なく自分を慈しんでくれた薫への思いは、得られなかった肉親への思慕と
同じものなのかも知れない。
薫のそばにいるだけで武装する必要もなく、弱さもすら曝け出せる。
返事を待つ薫に気付き、真一は思いを悟られぬよう薫に向く。
「私は大学に残ることを選択しましたし、引っ越しも何もありませんから平気です。
他のみんなも順調に支度を……」


ここへ入学するまで他人が鬱陶しくて仕方なかった。
人の言葉には必ず裏があり、騙す者より騙される者が絶対的に悪いのだと
信じさえしていた。
そんな真一には今、恩師である薫と仲間がいる。
しかし、恩師や仲間の存在は真一に『別れの悲しみ』を新たにもたらした。
「さぁ、カップを。本当にこれが最後のコーヒーだ」
ポットに残ったコーヒーを薫は真一のカップに注ぐ。
薫は空になったポットを、部屋の隅にある小さな手洗い場で洗い始めた。
出会った時より更に小さくなった薫の背中を見つめているうちに真一は、
自分でも思いもしなかった言葉を口にした。
「先生……私は……昔から不器用で……
友達、仲間、恩師と呼べる人と出会えるなんて、思ってもいませんでした。
もしも生まれ変わっても私は……先生にお会いしたい。
何でもします、先生が喜ぶことを、何度でも!」
真一の言葉に薫は、手にしていたポットを床に落とした。
ポットは粉々に砕け散り破片が床で光を放つ。
「先生!?」
真一は驚き薫に駆け寄る。
「お怪我は?」
薫は何かに怯えるように身体を震わせていた。
「どうされたんですか?どこか具合でも」
「……いや、疲れたんだよ。
小作の家に生まれて、物心ついてからずっと働きっぱなしだった。
それがあと幾日かでやっと定年でお役御免。
私も機械じゃなかったようだ」
自分を背後から支える真一を、薫は振り返るように見上げた。
そこにいるのは紛れもなく真一であり、薫を心底、心配している姿だった。
「いや、心配をさせて済まなかった。本当に大丈夫だから……」
明らかに様子のおかしい薫を座らせ、真一は砕けたガラスを片付ける。
ガラスの破片を集めながら、思わず薫に口にした言葉を心の中で何度もなぞった。
『何て感傷的な言葉を……私も人の子だったってことか』
冷静さを失った自分の言葉に、真一は心の中で冷笑した。
慌ただしい中、『枇杷の会』のメンバーが集まり、薫との送別会をしようと
企画をしていたが、薫は誰にも告げることなく、予定を早め僅かな荷物と共にひとり
施設へと旅立った。

 


大学の附属病院の医師として初出勤の朝、真一は白衣を羽織り医師としての
真新しいネームプレートを胸に薫の部屋へ来た。
早朝の校舎は相変わらず足音が大袈裟なくらいに低く響く。
ドアの前に立ち見上げるが、そこにはもう薫の名のプレートはない。
いつものように、深呼吸をひとつしてノックと共に扉を開ける。
いつでも薫は笑顔で『おはようございます』と春の日差しのように微笑みながら
部屋へ招いてくれた。
ブルーマウンテンと焼き味噌の併せた匂いは、不思議と不快に思うことはなかった。
6年間、薫は真一の朝食を用意し続けてくれた。
テキストが必要な折々に、何故か仕事とも言えないような雑用が増えて、特別手当と
称して真一の収入は上がっていた。
時に買うべき教科書そのものを手渡され、
「この中に記された内容を資料としてまとめてください。
使った後はこの本を好きにしていいですから」
と、言われたこともあった。
薫と出会ってからは、荒れていた手はささくれひとつ無い綺麗な手となり、
臆することなく誰にでも差し出せるようにもなった。
もし、薫と出会わなければ今頃自分は、傲慢な医師になっていたのだろうか。
いや、医師になれていたのかすら疑問に思う。
背負っていた劣等感を拭い去り、他人を見下すために医師になれるなど
あり得なかったかも知れない。
薫は自から真一の負の遺産全てを持ち去ってくれた。


もう、ここへ来ることはないだろう。
薫も、そして自分も。
真一はネームプレートを手にすると、それを部屋に翳した。
「今日からこの大学の心臓血管外科医師になった三上真一です。
『私たちはこの三人を忘れてはならない
彼らの大いなる理念は、医学のみに囚われることなく後世に継承していくとが
恩恵を受けた私たちの義務であり責務なのである
彼らの思いは永遠に生き続ける……』」
真一の頬を涙が伝いポツリポツリと床を濡らす。
どんなに理不尽なことをされても、何があっても絶対に泣くものか。
そう誓い鉄壁の心で自分を防御し続けた真一は薫との別れで、親を失って以来、
初めて涙を流した。

 


季節が巡る。
笑顔も涙も、出会いも別れも取りこぼすことなく巻き込みながら時は流れる。


誰とでも打ち解けるようになった訳ではなかった。
場を取り繕うような安易な笑顔など、平気で作れることもなかった。
今も何事にも容易く妥協だけはしなかった。
傅かれる手段として選んだはずの医師と言う職業に今は誇りを持ち、真一は充実した
日々を過ごしている。

 

「三上先生、お電話が入っています」
術前の患者家族への説明を終え廊下に出て来た真一に、看護師が声をかけた。
「わかりました」
真一はつま先の向きを変えると、少し足早に電話に向かう。
「橋本総合病院の大橋先生からです」
看護師の言葉に、真一の足が止まる。
「まさか……」
真一は不安に駆られながら、受話器を取った。

 

「施設でも健康には気遣っていたのですが……
いや、本人には分かっていたのかも知れません、自分が癌に侵され始めていることが」
それは薫が癌に侵されているという、誠からの暗く重い知らせだった。
「橋本先生は今、そちらの病院に?」
受話器の向こうで誠の大きなため息が聞こえた。
「十日間の検査入院をしてはいましたが、今朝、施設へ戻りました」
「戻ったって……?」
「心臓にも問題が見つかってね。
心臓が先か、腹膜に広がった癌が先かって次元の話なんだ。
今日、こちらで担当医師たちが集まり、今後の治療方針を相談しようとしていた矢先、
先生は施設に戻ると置手紙を残して……」
誠と薫の関係を知っている真一には、誠の苦悩が痛いほどに理解できた。
人に蔑まれ生きて来た自分たちは、薫の存在が無ければ今の『先生』と呼ばれる
身分も手にしてはいなかった。
親、恩師、恩人、そして人生においての良き先輩と、薫に対する思い入れは未来永劫、
誠としか共有できないであろうと今更ながらに真一は気付いた。
「私に何を求めますか?」
真一の問いに
「先生にとって君と私が、特別な思い入れのある人間であると思いたい。
私の元を去ったのが先生の私に対する答えならば、後は君に託したい。
君への答えを私は先生の意志として尊重したいと思っている。
ていよく逃げたと思われるかも知れないが、どうすることが先生の幸せに
繋がるのかが、私には本当に分からないんだ」
淡々と話す誠の声の向こうで、誠の嗚咽が聴こえる気がした。

 

誠との電話を切るとすぐにその電話を内線に繋ぎ、麻酔科の瀧田を呼び出した。
「相変わらずこの外科は人使い荒いのよね」
ナースステーション横の小さな相談室。
背を向けて座る真一に、駆けつけた瀧田は開口一番そう言い笑った。
小さなテーブルを挟んで対面で座って真一の血の気の引いた顔を見て、瀧田は
余計なことを言ってしまったと僅かに後悔し、口を噤みながら腰掛けた。
「実は橋本先生が……」
真一は今しがた切ったばかりの電話の内容を、抑揚なく瀧田に伝える。
一度、大きく鼻をすすると瀧田は立ち上がった。
何か質問や相談をされると思っていた真一は、座ったまま瀧田を見上げる。
「三上君の理路整然とした話に質問なんてないわ。
で、いつ行くの?先生の所には」
「いや、私には患者もいるし……」
「明日、オペはないんでしょ?確か外来もなしよね。
病棟の方も今なら誰か、引継ぎ要員が捕まるでしょう」
それでも黙る真一に瀧田は
「あなた勘違いしている。橋本先生は今は病という爆弾を抱えた患者なの。
あなたは医師として先生の元へ行くの」
と、強い口調で言った。
「取りあえず枇杷の会のメンバーには、私から事情を伝えておくから」
「済まない……」
初めて見た気弱な真一の姿に
「いい?医者の『済まない』は敗北宣言。
私はそんな言葉、三上君の口から聞きたくなんてないから」
と瀧田はピシャリと言った。


真一が病院を出たのは午後8時を過ぎた頃だった。
不在になる真一の引継ぎの手伝いを続けている瀧田に頭を下げたが、瀧田は電話を
しながら『さっさと行け』と、手で追い払うような仕草をした。
葉だけになった桜が夜風に揺れている。
これから自宅に戻り支度をして、高速を飛ばせば夜明けには薫の元へ着けるだろう。
真一は足早に闇に消えた。


2017,3,2

 

*****

かおるに背負わせる不幸の数。

やはり橋田先生には負けたくはないです、自分。(笑)

物語の視点が薫から真一に変わりました。

自分がいち早く想像した結末に確実に向かってます。

私がちべた店長の作品の中の『橋本のじいちゃん』と『三上先生』を見て、何の構想もない

中で瞬時にどんな結末を見たのかを、もう少しでご披露できるかと。デレデレ

 

そう言えばフジのドラマ『コード・ブルー』3期の放送が決まったと一部で言われているけれど、本当なのかな?

あの山Pは好きだ。だから今からワクワクしている。ウインク

入院していた時も、隣の病院のヘリポートにドクターヘリが到着するたびに

「山P乗ってねぇかな」って思ってた。