『海蛍』は特別な趣向を持った方に向けられた不定期連載小説です。

お付き合いの「いいね」は必要ありません。

次回、普通のブログupの時に、またお付き合いください。

 

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多くの専門書を前に、勉強好きである真一は夜が明けるまでそれらの本を片っ端から手に
して読み続けた。自分がこれから始めるであろう学問の奥深さに、幾度も身体の奥底から
身震いをもした。
「何を恐れているんだ。
これを熟さなければお前はもう、この世では浮上することはないんだぞ。
また、あのおじの一挙一動に怯え、搾取されながらいきるのか!?」
真一にとっての医師の身分とは、おじから逃れるため、自分に無関心だった者たちを見返す
だけのツールに過ぎないことを朝日の中、改めて自覚をした。
薫と約束した仕事がある。
冷水で顔を洗い手荒く拭くと、用意してあった勉強道具の入った鞄を手に靴を履き始めたが、
しばし手を止め考えた後に、部屋に戻り薫が押し付けた本数冊を手にすると、それを
鞄に詰め家を飛び出た。自分で買うにはあまりに高価すぎる本。
薫の厚意を受けてみようと……真一が初めて人を信じ頼った瞬間だった。
部屋を出てすぐに、薫が貸してくれた自転車が目についた。
返却せねばとそれに跨り、ピンと張り詰めた静かな朝の空気の中を、ペダルを思い切り踏み
込み加速させる。ひんやりとした風が頬を撫でる感覚が心地よかった。
真一の学生としての本格的な一日が始まった。




「私、これから朝食なんです。よければ一緒にどうですか?」
基礎医学のプレートのかかる薫の部屋の中は、何とも美味そうな焼き味噌の香りが漂っていた。
「いえ、私は結構です。食事は済ませておりますので……」
と、答えると同時に、香りに耐えかねた真一の腹が悲鳴のような音を立てた。
バイトをしても、朝食をしっかりととれる裕福さはない。
何より親と死に別れてから、満足に朝食をとった記憶など真一にはなかった。
「これから授業があるんでしょう?
腹が減っては、そればかりが気になって満足に勉強なんてできません。
今まではどうにかなっていたとしても、これから6年、本気で医学を学ぶ気があるのなら、
食べられる時に食べておくということを条件反射として身に着けるべきです。
さぁ、ここへ座って」
机の上にある小さなオーブントースターがチン!と音をたてる。
薫は嬉しそうに戸を開き、アルミホイルに載せていたミツの焼きおにぎりを取り出した。
「本当は七輪で焼くのが最高なんですが、危ないからって大学側から禁じられていて」
薫は子供のような表情で笑った。
大き目の二個を真一に差し出し、小ぶりなものを自分の方へと薫は寄せた。
盛大に腹が鳴ってしまった事実に、自分が空腹である事実。
その事実を認めた真一は、『いただきます』と頭を下げると、それを頬張った。
「あ……」
炊き立ての飯を握り、何かしらの味を付けた味噌を塗って焼いただけのものだとわかるが、
それが例えようもなく美味く感じた。
「どう、美味しいでしょう?」
真一は無言のまま大きく首を縦に振った。
そんな真一の姿を嬉しそうに視界に捉えながら、薫は持参した保温水筒から味噌汁を
紙コップに注ぐと真一にそっと差し出した。
「熱いですから、気を付けて」


親が亡くなってから、手作り料理など無縁になっていた。
手を掛けた料理など、テレビドラマや小説の中の出来事なのだと思ってもいた。
そんな冷え切った真一の心を、薫の持参した味噌汁は加速をつけて氷解させる。
「昔、下宿先のおばちゃんが、手作り味噌に一味加えてこの味噌焼きおにぎりを作ってくれて。味噌汁に使った味噌も手作りなんです。この数年かな、自分でも美味しいって思えるものを作れるようになったのは」
既に二つを食べていた真一に、薫は自分の分の一つを差し出した。
流石に真一もそれには恥ずかしさを覚え
「結構です」
と言ったが、今度は唾液を嚥下する音が部屋に響いた。
「遠慮せずに。さぁ」
俯き加減に三個目を手にした真一は、それを頬張る。
「あの、昨日、お借りした自転車ですが」
「あぁ、暫く私のお使いで動いてもらうことになるので、君専用として使ってください。
ここだけの話……実はあんな今流行の自転車に乗ってみたくて年甲斐もなく買っては
みたものの、考えたら私の手で自転車のブレーキって……ほら」
薫はおどけるように右手を胸元で左右に振った。
自分の心が折れないようにと、薫が道化を演じているのだと真一は悟った。



腹が満たされると思考も正常に動き始め、そうなるとやはり薫の一連の行動意図が
真一にはどうしても気になって仕方ない。
「私は幼いころに親を亡くし、金も後ろ盾になってくれるような身内もいません。
橋本先生が気付いた通り、貧しいが故に年齢を偽ってまでバイトをして何とか今日まで
生きることが出来ました。
ここには裕福な家庭の子弟が多くいると思います。
私よりも恵まれた環境で頭も良い者もいるでしょう。
あなたは一体、私に何を望んでここまでしてくださるのですか?」
月10万の好待遇のバイトを手放すことになるかも知れないと、言葉を口にしてから気付いた。
しかし、この点はどうしてもはっきりさせたいと真一は思い、薫の目を見つめる。
「私も貧しい農家に生まれ、肉親もいません。
けれども医師になりたいという夢だけは、持ち続けていました。
色々とありましたが私は今、こうして医師になって夢を果たせています。
本当に多くの人々に助けられたんです、身分も国籍も関係なく。
自分がそろそろ第一線から退く年齢になったのだと、今更ながらに悟りました。
自分が受けたたくさんの恩を次の世代に……なんて言えば私は笑われてしまうのかな」
こんな風に自分と穏やかに向かい合い楽しそうに話してくれる相手など、亡くなった親以外
にはいなかった。
薫の真意は自分にはわからないが、少なくとも薫が自分を利用して何か事を起こそうなど
あり得ないことだけは理解した。
「私に何らかの代償を求められても、それにお応えすることは無理なことだけはご理解
ください」
真一の言葉に
「死に行く道しかない老人が、君から何か代償を受け取ったとしても、それをあの世に
持って行けるはずもないだろう」
と、薫は愉快そうに笑った。




誰に怯えたり邪魔されることなく勉強に打ち込める環境は、本当に有難かった。
一番気にしていた生活基盤となるバイトも、薫のお陰で安定した収入源となり食事を始め
大学で必要なものの殆どを薫が用意をしてくれている。
資料の整理も薫は説明と称し、真一に実は学問となるべきことを先回りして教えてくれて
いたのだと気付いたのは、国師受験の時だった。


朝、薫の部屋に顔を出すと、薫は既にいて暖かい味噌汁と味噌焼きおにぎりを用意
していた。いつも季節の話や医学に関する時事問題など薫が一方的に話題を振り話す。
その話に無駄な物はなくレポートを作成する際には大いに役立つこととなった。
薫に使いを頼まれ他の教授や助教授、講師の元へ出向くことも多々あるが、薫は真一の
ことを勉学に励む向上心のある若者であると触れているので、気付けば大学職員たちは
真一の存在を厚意的に受け入れるようになっていた。
仕事を終えて拘束時間終了まで、薫の部屋でテスト勉強をしていると薫は如何なる
教科であろうが躊躇うことなく教えてくれた。
特に英語に関して薫は教授以上の実力があると知った。
まさに四指がないという以外、この初老の男に死角となる部分は皆無だった。
互いのプライベートを詮索しあうこともなく適度に距離を保った関係は、逆に真一から
薫への警戒心を解きほぐす結果を導いた。
教育課程の1年を真一は安らぎと平穏の中で過ごした。



2年になり基礎医学を中心に本格的な医学の勉強が開始された。
真一は心臓外科医を希望、基礎医学を薫のゼミで受講することを告げると、薫は
「Best choice(最善の選択)!」
と、弾けんばかりの笑みをくれた。
そして、真一は学生として初めて薫の講義を受けることとなった。



薫のゼミは真一を入れて20名を数えた。
薫のおかげで目上の者に顔を知られる事となってはいたが、元々、友人などいらないと
思っていたし、ましてや大学は学ぶ場であり、チャラチャラした上辺の友人に至っては
不必要だと信念にすらなっていた真一には、ゼミで親し気に会話をする同級生の輪に入る
素振りもなかった。
「先輩から聞いたんだけど、ここの橋本って講師、ジジィで小うるさいこともなくて
取りあえず出席さえしてたら単位は大丈夫なんだってさ」
「それってノートさえ何とかなれば楽勝じゃん。俺、適当にやっとくわ」
真一の耳に入る心無い言葉が胸を抉る。
今まで他人の悪口を聴いても何も感じたことなどなかったはずなのに、薫を貶めるような
雑言に真一は怒りで腹の底が熱くなってくるのを感じた。
眼鏡の奥の真一の鋭い眼光が雑言へ向いた時、薫が教室へと入って来た。
真一は咄嗟に深呼吸し、頭を冷却させた。
他人のことで怒りが湧くという不可思議な感情を、真一は初めて体験し戸惑いを覚えた。


「私が講師の橋本薫です。
ここでは基礎医学の分野を君たちに学んでもらいます」
そう言うと黒板に向かい、左手でチョークを持ち『教わる』と『学ぶ』と文字を書き始める。
その動作の中、学生の何人かが薫の右手の指が欠損していることに気付き、横や前の者を
つつきながらそれを伝え始めた。
教室はざわざわとしだし、真一はそんな学生の姿に怒りと恥ずかしさを覚えた。
文字を書き終えた薫は、そんな騒ぎも想定内だったようでチョークを置くと振り返り言った。
「私は昔、整形外科医として日々、患者さんと向かい合っていましたが、事故で利き腕の
指四本を失いました。第一線で患者さんを診ることは出来なくなりましたが、決して
絶望の中、こうして講師を選んだ訳ではないことだけは理解してください。
私は若いあなた方に医学を教えることに誇りを持っています。
そして将来、あなた方が学んだことを誇りに思えるような教えをしたいです」
薫の言葉にある学生が興味本位で問いかけた。
「その事故ってどんな事故だったんですか?自分の不注意とか?」


薫と出会い2度目の春を迎えたが、殆ど一緒にいる自分でもそこまで立ち入ったことを
訊いたことはない。あまりに不躾なその問いに最前列で怒りに拳を震わせる真一に目を
止めた薫は、ふっと息を吐くと質問を投げかけた学生を見つめた。
「避けられない事故でした。
でも、数秒ですが考える時間はありました。
やっとなれた整形外科医として指を護るか、それともこの指を護るのと引き換えに
若者を一人死なせるのかと思う瞬間が……
でも、人の命を天秤に掛ける医師自体、存在してはならないと思いませんか?
私の代わりを担ってくれる人は、君たちを含めて世界中に何千・何万といます。
けれどもその人の命はひとつ。決断と同時に私の目の前でこの指は刃物で押しつぶされる
ように切断されました。今でも、その時の夢を見ます。
恐ろしくて年甲斐もなく大声を出し目覚めることもあります。
けれども指を失う決断、今も私に悔いはありません」
薫の言葉に教室は静まり返った。
しかし、その静寂を破ったのは、意外にも真一がした更なる質問だった。
「他人に自分の夢や希望を捻じ曲げられた口惜しさ、先生にはないのですか?
その護ったという人を先生は微塵も恨んではいないのですか?」
薫が誰かのために自分の何かを犠牲にしてしまったであろうその事実に、真一は自分でも
深く考える間もなくその質問を口にしていた。
自分は他人に人生を捻じ曲げられ、今も苦しんでいる。
なのに薫はなぜもこう、飄々と生きていられるのだろうか。
他者など気にすることのなかった真一が初めて拘った人と言葉。


言葉を吐き出した後、はっと我に返った真一はしまったと言わんばかりに唇を噛みしめた。
学生たちは息をのみ真一と薫を見つめた。


2017,2,14

 

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「テンポ良く」書こうと思ってるけど、何だか急いて駆け足気味に思えてる。

真一はそう簡単に他人に心を開いたりしないだろうに、この程度の描写でって

思ってしまう。で、考えた末に真一に爆弾発言させてみた。滝汗

「基礎医学」って分野も実はもっと細分化されているそうだけど、そこまで拘っていたら本当に自分が生きているうちに終わらない気がして、大雑把に表記。

このペースだとあと10回くらいでお終いになるのかな。

終わったら、福岡太宰府で次の話の取材です。

いや、現地で触れて感じて来るって類いのもんなんだけどね……

2011年の本家サイト開設時点で、薫は実は道真の愛した『白梅』だったって設定があった。

道真さんは、しょっちゅう車をぶつけて

「誰かぁぁぁっ!!!」

って叫んでいるあの人。警視庁、免許取り上げろって毒母が騒いでる。

古くから本家に出入りしている人なら「あぁ、あの話か」って思うだろうけれど。

まさか行けるとは思ってもいなかった太宰府。

梅の時期は過ぎてはいるけれど、あのふたりを堪能してきます。