『海蛍』は特別な趣向を持った方に向けられた不定期連載小説です。

お付き合いの「いいね」は必要ありません。

次回、普通のブログupの時に、またお付き合いください。

 

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空になった真一のカップを見ながら薫はひとり、笑みがあふれ出る。
窓からは温もりのある西日が差し、薫の影が部屋に伸びていた。



大学講師の役職に着いて既に20年を超える年月が経っていた。
ここまで自分を導いてくれた成瀬や伊達、そして泰子や正子も既に鬼籍に入り、師と仰ぎ
心情をこぼす相手もいなくなっていた。
誠は『橋本醫院』を『橋本総合病院』と名を変え、規模も大学病院と変わらぬ程にした。
屋上にはヘリポートも作られ、如何なる僻地からも急患を受け入れる体制も整えられた。
この病院の名誉病院長の役職に薫の名を残し、いつでも気楽に薫が来られるようにとしては
いるが、自分はもうここでは過去の人間であるからと誠に感謝しつつ、病院へ足を運ぶことも
滅多に無くなっていた。
誠は病院のトップでありながらも、今は救急救命医として第一線で患者と向かい合い続けて
いる。まさに薫に取って理想の後継者となった。
家庭の事情で中学を卒業後、院内で看護助手として陰ひなたなく働く大平美幸と出会い結婚。誠の後押しもあり、美幸は勉強をし直し今は大学で経営学を学び終え、誠の理想とする
病院運営のために努力をしている。ふたりの子供に恵まれ、その子らも大らかに育っている。薫を『おじいちゃん』と呼び、実の祖父・孫のような交流もある。
自分は恵まれた境遇にあるのだろうと思う。たぶん、きっと……




医師としての理念を、日向やアランが確かに生きた証を継承してくれる更なる人材を求め
大学で講師を続ける薫だったが、気付けば後継者となるような学生との心揺さぶられる
出会いもなく年月だけが経っていた。
この大学の学生たちの殆どが頭の良い温厚な者たちで、薫は入学式の度に内心、大きく落胆していた。確かに人は変わる。が、そんな変化を見せることもなく学生たちは巣立って行く。誠の存在があるだけで自分は幸せなのだと認めなければと思うが、心の中では今年こそはと入学式に臨む。そしてついに薫は探し求めていた者との出会いを果たした。
医師としての崇高な志を持ち希望に満ちた眼差しの群れの中で、ただひとり異彩を放つ
瞳を持つ男。その瞳にあるのは夢でも希望でも、誰かを助けたいという思いの片鱗も
感じられない。
『俺は絶対にここから成り上がってやるんだ』
誰をも敵とみなす眼光に薫の気持ちは湧きたった。
現状に満足することなく、何かに飢え滾るその存在感が、離れた場所にいる薫の全身に
突き刺さる。入学式を終えて薫は、人混みをかき分けながらその学生の後を追った。
どうやら仕事を探しているらしく、求人票を手にしているその横に立ち学生に視線を向ける。
求人票を持つその手はあかぎれで赤くなっていた。
ささくれのある指は、土木の仕事をしていたのだろう。
指紋や爪の中に特有の黒さが残っている。


ふと、亡くなった成瀬のことを思い出した。
今思えば、薫の窮地に気付いていたのだろう。
自分の仕事の手伝いで給金をくれて、食事も与えてくれた。
仕事として与えられた作業や指示は知識となり、試験時に役立ち働かずに学ぶ者よりも
むしろ成績は上がった。あの時は偶然の出会いだと喜んだが、成瀬もまた今の自分のように
不遇の若者の力になり、世に出してやろうとしてくれていたのだと気付いた時、既に成瀬は
天寿を全うしていた。
兄のように慕った伊達もまた、既にこの世にはいない。
多忙の中、脳内出血を起こし半身麻痺となり療養中、事故死した。
リハビリの一環として、ひとりで散歩をした際に誤って池に転落し溺死だった。
指を失った薫が立ち直るきっかけを成瀬と共に与えてくれた大恩人でもあり、訃報を知り
薫は大きなショックを受けた。
告別式を終え帰宅した薫の元へ伊達から手紙が届いた。
慌て開封した中には整形外科医が突然、メスを握れなくなった口惜しさで満ちた
ワープロ打ちの手紙が入っていた。
そして最後に
『あの絶望の中で君はよく立ち直れたものだ。尊敬に値する。
君を誇りに思いながら私は旅立つ。』
と震える文字で綴られていた。
薫は直感した。伊達は自ら命を絶ったのだと。
その事実を薫は伊達の名誉のために、未だ他言せずに至っている。



今年、出会いが無ければ大学を去ろうと覚悟を決めていた。
出撃命令直前に日向と共に訪れた宿の近くに老人ホームができて、そこで静かに余生を
送ろうと動き始めてもいた。
誠に知られでもすれば、全力で止められることは必至であり、極秘裏で動き始めていた。
しかし、真一との出会いはあまりにも嬉しい誤算であり、歓喜の中、薫はすぐさま
保留していた老人ホームへの入居手続きを中止した。


思いやりや優しさ、頭の良さや手先の器用さだけでは、並の医師にしかなれない。
しかし、自分が残された余力を注ぐ相手は、それらの更に奥深くある途轍もなく大きく
厚い強固な扉を自らの手でこじ開けるほどの強さが必要だと思っていた。
愛情も与えられず、満足な環境も無い中、これから自らの手で足で道を作り歩く中で、
仲間を得て愛や友情という最大の武器を吟味しながら手にしていく。
それは自分の理想を押し付けるのではない。
真一に、何が自分の理想となり、どうすることが必要となってくるのか。
その結果、自分は何を得ることが出来るのかを気付いて欲しいと薫は祈るように思う。




翌朝、真一は約束した時間より15分早く、薫の元へやって来た。
薫は机上の本を指示通りに仕分けし、本棚へ戻す作業を頼んだ。
真一は薫からの指示を受け、手際よく作業を始めたが幾度か作業の手が止まる。
大学から買うことを勧められた本が何冊もあるが、これまでのアルバイトで得た金は底をつき、手続きを開始したばかりで奨学金もまだ手元にはなく、本を用意することが出来ずにいた。薫の机上の本の山の中には、それらの専門書が何冊も積まれていたのだ。
さりげなく裏の値段を見るが、どれもごく当然のように何万もの金額が表記されていた。
努力して大学へは入れたが金も頼る者もない現実を、真一は今更ながらに思い知らされた。
「困りましたね……」
手の止まった真一は、背後からの薫の言葉に驚き慌てて手を動かす。
「この狭い部屋にこれだけの本を収納するのはやはり無理ですよね」
薫はそう言うとため息交じりに苦笑した。
「定年を考える歳であり、蔵書を置ける部屋が欲しいなんて大学に言えるはずもないし」
真一はその言葉に反応することなく、黙々と作業を続ける。
「あ、三上君。どうだろう、この部屋の中から段ボール箱にいくつかでいいから、
君の部屋に本を預かっては貰えないだろうか?」
その言葉に真一の手が止まる。
「本ってね、それを手にしたその都度の思い出が蘇って、人が思うように簡単には
捨てられないんだ。そうだな、これとこれ……
これも取りあえず今すぐに私が使うことはないな」
薫は部屋の隅に置かれていた箱を手にすると、素早く本を箱に詰め込んだ。
「ちょっと待ってください。私はまだ返事をしては……」
端から真一の意見など聞く気もない薫は、真一の動揺など意に介すことなくあっという間に
箱をふたつ積んだ。
「帰る時に自転車を貸しますから、これをお願いします。
で、本は必要だったら気にせず使ってください。
本は使うことで価値が生まれますからね」
真一は憮然としながらも小さく『はい』と答えた。




夜道を箱の重さでふらつきながらも、真一はアパートへ帰宅した。
かくも年寄りとは、どうしてああも人の意見を聞き入れず、己の好き勝手にことを運ぼうと
するのだろうかと、ふたつの箱を抱え部屋になだれ込むと同時にイラつきはピークに達した。
しかし、今までどこでバイトをしても何かしらの理不尽もあったし怒りもあったことを
思えば、これも仕事なのだと思い込むようにして気を静めようとする。
だが、それも帰り際に言われた薫の一言を思い出すと、怒りがまた湧いてきた。


「その箱の中に大切な書類を紛れ込ませてしまったみたいなんです。
家に戻ったら、箱を開けて探してくれませんか?」


勉強の時間が惜しいというのに!
真一は手荒く箱を止めていたテープを剥がすと、中の本に手をかけた。
「え……」
手が僅かに震えた。
「これは……」
箱の中身を全て出し、部屋の中に本を広げる。
そこに詰められていた本の全てが、これから真一自らが揃えなければならないはずの
専門書だったのだ。
結局、書類の類は何処を探しても見当たらなく、真一はいつの間にか書類のことなど
忘れ、手にした本を次々と見ていく。
「あの講師、一体、何を考えてるんだよ」
人からの優しさなど、親を失ってから忘れていた自分には薫のこの行動が無性に腹立たしく
思えた。


2017,2,9

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ちべた店長さま

あの……この羽生君は描かないのですか?酔っ払い

そのうち、(あのお姿の)店長たちと羽生藩の若とのお話なんて希望です。