『海蛍』は特別な趣向を持った方に向けられた不定期連載小説です。

お付き合いの「いいね」は必要ありません。

次回、普通のブログupの時に、またお付き合いください。

 

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大学構内、暗く長い廊下を真一は男の後を導かれるがままにかなり歩かされた。
誰もが気付かないような校舎の隅に、その部屋はあった。
「散らかってますが、どうぞ」
もうすぐ建て替えが始まるという、古い木造校舎の重厚な扉の軋む音があたりに響く。
『基礎医学 橋本薫』
何の感慨もなく、真一は部屋に掲げられたネームプレートを見上げる。


所狭しと置かれ積まれた医学書や雑誌。
男が指のない手でパイプ椅子を勧めた。
「私は仕事を探さなければなりません。時間が……」
そんな真一の言葉など全く意に介すことなく、男はコーヒー豆を挽き始めた。
「ここにはブルーマウンテンしかありませんが、いいですよね?」
他人に同情する気持ちなど持ち合わせてはいない。
しかし、真一の目は男が器用にコーヒー豆を挽き、手際よくそれをカップに注ぐ優雅にさえ
思える一連の流れから目が離せない。
男は今この部屋に自分以外の人間のいることが楽しくて仕方ないように思えた。
『仕方ない……』そう心の中で呟きながら、真一はパイプ椅子に腰を掛けた。



湯気踊るコーヒーは、側面に『〇〇中学校備品』と書かれた机の上に置かれた。
「あ、気が付きましたか?
まだ使えるのに、古いから捨てるって言うんで私が貰い受けて使ってるんですよ。
古いってことは罪なんでしょうかね」
男の笑いに媚びることなく、真一は憮然と目礼するとコーヒーを口にした。
「……!」
「美味しいでしょう?
大学を辞めた元学生が未だにこのコーヒーを飲みにここへ来ることもあるんですよ」



この男と出会い声を掛けられてから、ずっと調子が狂っている。
口論になっても何時でも相手を論破するだけの自信は常にある。
しかし、角のない川原の丸い石のようなこの男には、自分とぶつかる角自体が存在して
いない。口論も論破もしようもない。
真一の苛立ちに気付いた男は、カップを置くと真っすぐにその目を見た。
「イライラもしますよね。急いでいる君を呼び止めて、こんな辺鄙な場所に連れ込んで
コーヒーを淹れてですから。
私は橋本薫。この大学で学生たちに基礎医学を教えている講師です」
「講師、ですか……」
真一は不躾にも、薫の指のない手を三度(みたび)見た。
「この大学で教える者すべてが医者でなければならない決まりはないんです。
不慮の事故で手はこうなってしまいましたが、私はこの大学の卒業生であり医師でも
あります」
指のない講師の存在に、僅かでも疑念を持った自分の心を見透かされた気がした真一は
「いえ、そんなことは……」
と、言いつつも語尾を濁す。
「それで、私に何か御用が?」
安易に心を開こうとしない真一に薫は、どこか遠い昔の自分を見ているかのような気持ちに
思わず苦笑する。
「実は私、今医学生のアルバイトを探していたんです。
学内で使用するデータの問題もあって、外部の者を頼むのはご法度なんです。
それなりの専門知識や能力も必要ですし、学生の中からアルバイトを探そうと出向いたら
君を見かけてね」
思いもよらぬ美味しい話に真一は、思わず古い机に身を乗り出した。
「あの、それはどんなバイトなんですか?時給は?日にどれぐらいの時間?」
「朝、他の学生よりも1時間くらい前に来て、私の資料整理の手伝いを。
昼も申し訳ありませんが、基本はここで食べてもらいます。
私の都合が悪い時もあるので、その時は責任をもって食事代を持ちましょう。
と、言っても学食で食べる分しか出せませんが。
授業を終えてからは基本は午後7時くらいまでまた私の手伝いを。
場所はここをベースに学内の図書館や他の教授・助教授・講師の所にも出向いてもらう
ことも多々出て来るかと。
朝食・昼食、残業になれば夕食付きで土日祭日は基本休み。
このペースで了解してくれるのなら、月に10万出しましょう」
「10万ですか!?」
医学生ともなれば実入りは良くとも、深夜の肉体労働で収入を得ることが難しいと真一は
考えていた。疲れ果てた心と体でハードな勉強に付いていけるのかと不安しかなかったのだ。
だが、この橋本と名乗る講師が、出会ってまだ30分も経たずして自分の不安を全て解消
してしまおうとしている。
しかし、心凍らせるような今までの出来事が、真一の心の中を駆け巡る。
そうだ、世の中、そうそううまい話などあるはずがないのだ。
その口惜しさがあったからこそ、自分は医師になって他人を見返してやろうと思ったのでは
ないのか。
「……なぜ、募集をせず、直接私に声を掛けたのですか?」
真一は射貫くような目で薫を見つめ問いかける。
「君の手に魅力を感じたからです」
薫はすぐさま答えた。
「手……?」
指摘され、思わず自分の手を真一は見つめた。
道路工事のバイトで手は荒れ、指先にはささくれがたくさんできていた。
細かな切り傷、泥汚れが取れないぐらい指紋の奥深くにまで入っていた。
お世辞にも綺麗とは言えない自分の手に気付き、真一は恥ずかしさで思わず両手を隠すように膝上に降ろした。
「恥ずかしがる必要はありません。それは働き者の手の証なんですから。
私はあなたの名もまだ知りませんが、ひとつだけ断言できるのは、この歳まで生きていて
そんな手をした自堕落な怠け者など見たことも会ったこともないということです。
医学部を目指し、上げ膳据え膳生活だった者が多い中、君は既に世の中の厳しさを身を
持って知っている。私はそんな君のような人に、自分の人生を捧げた医学の手助けをして
欲しいと思ったんです」
終始穏やかな薫の表情に、真一はこの言葉に嘘はないと思えた。
ここは大学でもあり、何かあっても自分に正当性があればどうにでもなると腹を括る。
「私に仕事をください。お願いします」
立ち上がった真一の勢いで、机上のコーヒーが波打ち僅かにこぼれた。
真一はそんなことを気にもせず、薫に深く頭を下げる。
「では明日朝からということで。で、君の名前を伺わないと……」
「三上……医学部一年、三上真一です」
「では、改めて自己紹介を。私は橋本薫、基礎医学の講師をしています。
ここを卒業後、整形外科医として働いていましたが、事故でこんな風になってしまい
今は講師としてここで働いています」
薫は涼しい顔で右手を差し出す。
穏やかな薫の中から、真一はしたたかさを感じる。
医学に携わりながらも指が無いことを言い訳にせず、自分に挑みさえしてくる。
初対面の相手をすぐに信じるほどの、めでたさは自分にはない。
しかし、薫のそばにいることが不思議なくらいに心安らぐ。
差し出されたままの薫の手を、真一は両手で包むように握る。
「恥ずかしながら、生活がかかっているので精一杯働きます。
よろしくお願い致します」
薫が終始笑顔だったのに対して、真一は一度も表情を崩すことはなかった。


これがふたりの出会いだった。


2017,2,7

 

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だんだんちべた店長が描いていた「橋本のじいちゃん」の姿に近づいてきました。

どんな風に過ごしたら店長が描いたような温厚なじいちゃんになるのかと、ずっと自問自答してました。(でん六豆食べながら)

何となく方向性が見えた気がしたので、ガンガン書き進めます。

チワワ奥さま、誤字脱字の校正、お願いします。お礼は「でん六豆」で。ちゅー