『海蛍』は特別な趣向を持った方に向けられた不定期連載小説です。

お付き合いの「いいね」は必要ありません。

次回、普通のブログupの時に、またお付き合いください。

 

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数週間後、退院の日を迎えたクロエは帰国前に橋本醫院に滞在することになった。
車に揺られ、都会の風景が次第に土埃舞う人家も疎らになってくる。
「昔の……ドクターがいた頃のオレゴンを思い出すわ」
クロエは食い入るように、その風景を目で追う。
「ハワード財閥の本拠地ともなるあのあたり、今は?」
ハンドルを握りながら誠が薫仕込みの流暢な英語でクロエに話しかける。
「ドクターのおかげで、今は国をも動かすほどの地方都市になったわ。
医療費の猶予制度は今も続いているの。
そんなことをしても、金を払わず逃げられ基金なんぞは破綻するだろうと言われたけれど、安心して医療を受けられ働く場所もあり、能力のある者への奨学金制度も魅力となって、いい人材がどんどん集まって来てくれた。
夫のルークも実はドクターハシモトの奨学金で大学を出て事業を始めたの。
ルークが慈善事業に熱心なのも、それが理由。
私ね、アメリカに戻ったら障害者が安心して就労できるプロジェクトを立ち上げる。
申し訳程度に仕事を与えるんじゃなくて、自身もまた社会を構成する人間のひとりであると自覚できる、そんな職場を……」


入院中からクロエはアメリカにいる夫のルークと、このプロジェクトについて何度も連絡を取り合っていた。クロエは俯くことなど自分の選択肢にはないと言わんばかりに常に前進している。薫にはクロエの姿を眩しく感じる。



「あ、病院が見えてきました。
婦長と私の母が首を長くして待っていますよ」
車の音に泰子と正子が玄関に出てきた。
薫が縁で繋がった者達。視線を重ね笑顔を見せれば、もう言葉はいらなかかった。

 

英語が話せない正子と、多少話せる泰子も混じって、英語、日本語、身振り手振りでの晩餐は終始、笑いが絶えなかった。
正子が看護婦であり助産婦であると知ると、クロエはアメリカの無痛分娩事情を話題にし、
正子は身を乗り出し誠を通訳にして積極的に会話に入った。
「日本も近いうちに、夫同伴での出産が当たり前になる日が来るかも知れないですね」
クロエとの会話の中に、正子も新たな病院像を描き始めているのがわかる。
嬉しく楽しい晩餐の場でありながらも、人知れず薫だけは空虚感が拭えない。
自分だけ、どうしても未来が見えずにいる。



翌日からクロエは車いすで診察室に入り、誠の診察を見学した。
整形外科医ではあるが、ここでは何でも対応をしなければならず多岐に渡る患者の相手をする誠の様子をクロエは細かにメモし、夜になるとアメリカでの最新医療を交えた対応方法を話す。今度は誠がクロエに質問を繰り返しながら細かにメモを取る。
「あぁ、俺、いつかアメリカに……クロエさんの病院に行ってみたいな。
国や常識にとらわれず、患者本位の医療をこの目で見てみたい……」
誠の口から思わず飛び出た言葉に、クロエは言った。
「ドクターハシモト。そう遠くない時期にドクターオオハシを私の病院に派遣して欲しいわ。

彼にはアランの医師としての理念を継承する器があるもの」
「アランの理念……」
「えぇ。私たちの病院では医療技術よりもアランの理念を踏襲できるか否かが最も大切なことなの」
クロエの言葉に
「アランの理念って何を指すんだろう……」
薫は自信なさげに呟く。
「ドクターハシモトはアランから正式に、これということを教えられた?」
「確かにアランから多くのことを学びましたが、改まって教えられたと言うことは……」
「だったらなぜ、あなたはアランのそばにいたのかしら?」
「それはアランの人柄に魅力を感じて」
「アランは絶えず絶望していた?」
「……」
「アランは知っていたのよ。
絶望ってのは誰かから与えられるものではなく、弱い自分の心が生み出すものなんだって。

死を前にしてアランは言ってた。
『弟ライナスを失い、自分も不治の病に侵され絶望しかけた時にカオルと出会えた』って。
自分が生きた証を託せる者との出会いに感謝しながら召される自分は幸せ者だって」
「先生……」
泰子の言葉に皆が薫を見る。
薫の顎から涙が滴る。それを隠そうとも拭おうともせずにいた。
薫は闇の中で光を見た気がした。
途方もなく遠くに仄かに灯る光を。




五日後、別れを惜しみつつ、皆と必ずの再会を約束しクロエは薫と共に日本を後にした。
あの会話以降、薫はぼんやりと考え込むことが多くなったとクロエには思えた。
クロエに付き添うはずの薫は、知らず知らずのうちにクロエに付き添われアメリカに降り立った。


アランと幾日も掛けて壊れそうな車で駆け抜けた旅だったが、今は町のそばに空港も出来て近代化された街並みを見ているうちにオレゴンのクロエの自宅に着いた。
入り口からは自宅が見えないほどの広大な屋敷。
クロエと薫を乗せた車は玄関先に横付けされる。
並ぶ使用人の間を縫うように、スーツ姿の男がクロエの前へ飛び出て来た。
「お帰り、クロエ」
クロエは車椅子からキスを強請り、男がクロエの頭を撫でながら絶え間なくキスを降らせる。
「狂いそうだったよ。ここで待つしかない私は」
そう言いながら、車椅子を手にしている薫の姿を見ると男は真剣な眼差しになる。
「ドクターハシモトですね?
この度は妻のクロエがお世話になりました。ありがとうございます。
私は夫のルーク・ハワードです」
と、右手を差し出した。
僅かに躊躇った後に薫は思い切って、指のない右手を差し出した。
ルークは何の抵抗もなく薫のその手を両手で掴み、何度も礼を繰り返した。
「しばらく滞在できると妻から伺っています」
ルークの言葉に薫は戸惑う。
「そうなの。ドクターハシモトは帰国後は大学の医学部で医師の育成の仕事に携わるの。
だから、こんな風に時間が作れるのは今しかないのよ」
「医学部!?」
「ドクターは自分はもう患者を診ることができないって思ってるんでしょう?
その考えは覆らないんでしょう?
だったら、指がなくても必要とされるドクターになればいいじゃない?」
クロエの言葉に薫は茫然とした。


その夜、自宅でクロエ夫妻と薫の三人で退院の祝いをした。
いくつもの事業を積極的に行うルークに対して、少なからず冷徹さを持つ人間を想像していたが、感情豊かなルークを誠に近いタイプの人間だと薫には思えた。
食事を終えクロエは人の手を借りての入浴となり、薫はルークとふたりになった。
「妻の大きな手術にも立ち会わず、さぞかし私を冷たい夫だと思われたでしょうね」
クロエが部屋を出てから、ルークは今までにない気弱な一面を見せた。
「いえ、それは……」
財閥のトップであれば私情を捨てなければならない時もあるだろう。
薫はその言葉を否定した。
「クロエは慈善事業に力を入れ、どんなに頑張っても日の当たらない人たちにもチャンスをと口癖のように言ってたんです。体調に変化が出ていたけれど、彼女は黙々と仕事を優先していました。気付いた時にはもう……」
薫は押し黙る。
「病がわかった時、クロエは迷いなく言ったんです。
『私は主治医に治療してもらうんだ』って。
その主治医と言うのが日本人であり、都会から離れた小さな診療所のような所で開業していると知って私は反対しました。何よりも、その主治医が整形外科医でありながら利き手の指が四本も欠損していたと知ったらなおのこと」
薫はついには俯いてしまった。
「毎日、クロエとは喧嘩になりました。日本に行く、行かせないってことでね。
正直、悲しくなりました。互いに愛し合っているのに、どうして喧嘩をしなければならないのだろうかって。でも、クロエは言ったんです。
『今、私が生きているのはドクターハシモトのおかげ。
この町があるのも、病院ができたのもみんなドクターのおかげだと。
そのドクターが今、迷いの中にいるのなら私はアランの思いを伝える役を引き受ける』と。
クロエは私をもここへ置いて単身、日本のあなたの元へ行きました。
すべての退路を断ち、あなたが引き受けざる得ない状況を命を懸けて作ったんです。
足の切断前夜、私たちは電話で何時間も話をしました。
クロエは泣いていました。足を失いたくはないと。
でも、これから何が起きようとも私は全てをドクターに委ねると、幼いころ死にゆくしかなかった自分を救って、今日まで生かしてくれたあなたに再び自分の命を委ねると言いました。
あなたはこうしてクロエを笑顔にして私の元へと返してくれました。
心からお礼を申し上げます、ドクターハシモト」
明るく笑顔弾けるクロエの本当の姿を薫は今、知った。
医学では先進国である母国を後にして、指を失った薫に自分が医師であることを思い出させるために、クロエは命を懸けてやって来たのだ。
「私の心が弱かったから……私が自分の悲しみしか見えなかったばかりにクロエやあなたを
そこまで追い詰めてしまったなんて」
薫は脱力し跪いてしまった。
「クロエはあなたの窮地を知って、日本の大学病院に入院した時点で行動を起こしてましたよ。あなたからドクターの身分を無くせばあなたは精神的に死を迎えるだろう。
でも、指が無くとも必要とされるドクターはいる、アランの理念は引き継げるって」
「私に何ができると……?」
「講師として未来のドクターたちに、ドクターに必要な心を伝えるんです。
どんなに技術が最高であっても、それだけでは患者は救えない。
あなただからこそ、あなたにしか伝えられない大切なことを伝えるドクターになって欲しいんです。日本ではクロエが退院した時点でもう、話が進んでいたことでしょう」
ルークはそう言うと、薫の肩に手をかけ立ち上がらせた。
「今の若い者に教えるってのは、正直言って大変だと思います。
アランやクロエ、あなたの思いがどこまで伝わるかも私にはわかりません。
でも、百人の中のひとりでも、千人の中のひとりでも思いが伝わってくれれば素晴らしいと思いませんか?自分の肉体は朽ち果てても、大切な思いは国境を越え伝わって行くのだから」
ルークのこの言葉に薫は日向、敏子、田中、ミツ、アランと、これまで自分を助け見守ってくれたたくさんの者達の姿が見える思いがした。
日向に至っては、今のこんな情けない自分のために自決したのではないはずだ。
「あぁ、私は……私はすぐにでも日本に帰ります」
身体の奥底から医師を夢見て頃の、あの思いが湧き上がってくるのがわかる。
「帰国について私どもがそれをどうこう指図することはできませんが、その前にどうかあなたがきっかけで作られた病院へ立ち寄ってください。
あなたが何をしたのかを、自分の目で確かめてください」
ルークがそう言うと同時に、部屋にクロエが戻った。
「クロエ、ドクターは明日にでも病院へ行きたいと言っておられる」
「まぁ、素敵!じゃ明日は私と一緒にお仕事しましょう、ねっ、ドクター?」
頷いたものの薫はクロエを直視できなかった。




眠れぬまま朝を迎えた薫は車に乗せられ移動を始めた。
あの頃、舗装もされていないでこぼこ道を、壊れそうなアランの車で疾走したことが夢ではないかと思われるほどに町は激変していた。
貧しくも互いに助け合い寄り添いながら笑顔を絶やさず過ごしていたアランの愛した町は、その片鱗を辿ることも出来なかった。
「ノスタルジックな気分に浸りたかったのなら、あの貧しかった風景の方がよかったかしら」
クロエの言葉に薫は心の奥底を覗かれた気がして気恥ずかしさを覚えた。
「でもドクターだって……田舎も都会も誰であっても医療を受ける平等はあると考えてあそこに橋本醫院を作ったんでしょう?アランだってそう感じていたから、病身でありながらもここへ戻って来てくれた」
戦争を知らない世代の者たちが笑顔で行きかう。
窮乏に喘ぐ者の姿もなく、我が子の命を護ろうと銃を手に男たちに反乱を起こした過去など目の前を行きかう誰が知っているのだろう。
「ほら、見えてきた。あれが私の……いえ、あなたが建てて下さった病院よ!」
純白の自分がいた大学病院程もある大きな建物が視界に広がって行く。
「最初は二階建ての……そう、橋本醫院より少し大きめぐらいだったのよね。
設備投資にお金が掛かって、貧しい患者さんの支払いは猶予だったけれど実は、ここで働く医師の給与までもが猶予になってたのよ」
クロエは懐かしそうに目を細め笑った。
「病院って看板は掲げてあったけれど、色々な人が来たの。
お金がないからと自分で育てた林檎を持ち込んだ人がいて、それを町の女たちがパイを焼いたりして売って。そのパイが話題になって病院のためにってバザーも行われるようになった。病院に来る人たちに今でいう予防医学を説いて、生活習慣病を減らし医療費自体抑えることも出来た。家族に先立たれてひとりきりの老人が何人もここへ来るの。どうしてかわかる?
ここに来ると自分にできる仕事があるから。自分を必要としてくれる誰かがいるから。
雑巾を縫ったり、学校へ行けない入院中の子供に昔、教師だった人が勉強を教えたり。
今は労働に対する対価も出せるようになったけれど、ここが出来た時はみんながひとつに
なっていたの。『アランとカオルの思いを絶対に無にするな』って」


描いていた理想は夢で終わってなどなかった。
それは目の前に確かに存在していた。


2017,1,27

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これから亭主と娘のシャツ・ブラウスのアイロンがけ。

親が共働きしていて、小学校の給食時、学校で貸し出す白いかっぽう着を週末持ち帰って洗いアイロンがけして次の当番にバトンタッチでした。

でも、親が壮絶な夫婦喧嘩ばかりで、学校の洗濯物なんて眼中になくて、自分で洗ってアイロンしてました。

かっぽう着って当時小学三年の子供がアイロンがけするにはかなりハードルが高かったと思う。腕や手に火傷を何度も負いながら頑張った。他の母親やばあちゃんがアイロンがけしたものよりは不格好で馬鹿にされたけど、それがあったから今、こうして亭主と一緒になってからずっとアイロンがけ出来ているのかも知れない。

家事が苦手な妻だが、亭主はアイロンだけはT-falの1万越えするものを文句言わずに買ってくれた。シャツもブラウスもハンカチも弁当の時に使うリラックマのランチョンマットも我が家はビシッ!!っと決まってるのさ。(`・ω・´)ゞ