『海蛍』は特別な趣向を持った方に向けられた不定期連載小説です。

お付き合いの「いいね」は必要ありません。

次回、普通のブログupの時に、またお付き合いください。

 

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ここから見える空は小さいといつも思う。
まるで都合よく切り取られ額縁に入れられたような空は、日に幾度もその色や様子を変える。薫は飽きることなく、その風景を見続けていた。
でなければ、目は間違いなく四指を失った包帯に覆われた右手を見ずにはいられなかったからだ。


薫と誠は土砂崩れの現場で、村の消防団や村の有志によって救出された。
誠の振るペンライトの小さな光点が、ふたりの命を救ったのだ。


しかし、誠を護ろうとその身体を全身で抱きかかえた薫の右手人差し指、中指、
薬指、小指には土砂に押されてきた鍬が迫る。
気付いた瞬間、誠の後頭部にあったその手を離せば、薫の四指は軽い怪我で済んだのだろうが、薫はギリギリと押しつぶされながらも四指を切断される道を選んだ。四指を失うことは、誠の頭部を護ることを意味し、その時の薫には一切の迷いはなかった。
指を落としながら薫は、太平洋上で自分を救おうと自らの手を切り落とした日向のことを思い出していた。
「あなたが耐えられたこの痛み。私も耐え抜いてみせます……」

 

大学病院に運ばれ、連絡を受けた成瀬と伊達が泥に塗れた四指の接合手術を試みたが、悪条件の中、あまりに時間が経過しすぎていた。
多くの人々を救い続けた薫の四指はついに薫のその手に戻ることはなかった。

 

薫に面会を許された肋骨を骨折し入院をしていた病衣姿の誠と正子は、病室に入るなり泣きながら土下座をした。
「どうかお許しください!これまでこんなに恩を受けながら、なんてことを……」
そう叫ぶ正子の横で、誠も床に頭を付けたまま絞り出すような声で言った。
「私の指を使ってください。この指を切って橋本先生の手に。
成瀬教授と伊達先生が執刀してくださるなら、どうにかなるかも知れません!」
母子は貧しかったあの日のように怯え、歯の根も合わぬほどに震えていた。

「泣かないでください。お願いですから……」
頭上から穏やかな薫の声が聴こえた。
「あの時……私には自分の指を護る選択肢が確かにあったんです。
けれども私は、何の迷いもなくこの指よりもあなたの命を選びました。
きっと私は生涯、このことを誇りに思って生きていくことになるでしょう」
「先生にはまだまだやるべきことがあったんです。
それと私の命、秤にかければどちらが重いかなんてわかるでしょう!?」
誠の言葉に薫の表情が険しくなる。
「私と共に学んだあなたがまだ、わからないのですか?
命は尊重し慈しむものであり、秤で比べるものなんかじゃないってことが」
薫は自分の生い立ちを話し始めた。

 

「太平洋上で短刀を使って自分の手を切り刻むってそんな、まさか……」
薫の話に誠は固唾を飲んだ。
「あの時、私は自分だけが助かったことが悔しかった。
どうして一緒に死のうとしてくれなかったのかと、艦長を恨んだ時もありました。

でも、わかったんです。土砂の中、あなたを護ろうとした時に、初めて日向艦長の思いが。
私は指を失ったんじゃない、この指と引き換えに、君に未来を託したんだってね。

君を護れて私はやっと日向艦長に顔向けが出来る気がしてならない。

孤独だった、心を許せる者など誰もいなかった私が今、こうして全力で護るべき人がいる暮らしが出来た喜びを、私はあの人に逢ったら真っ先に伝えたいと思ってます」
薫はどこまでも穏やかだった。

 

事故から十日後に誠が退院し、ひと月半後に薫も大学病院を後にした。
ふたりが不在の間、大学病院からの応援の医師が橋本醫院を支えていてくれた。
成瀬からはこれからの誠の負担を考えれば、今しばらくは大学から医師を派遣しようと申し出をされたが、薫はそれを敢えて断った。
薫はひとり橋本醫院に戻った。


「橋本先生!?連絡をくださればお迎えに行ったのに」
土曜の午後、患者がやっと去り静まり返った待合室にひとりぽつんと座る薫を見つけ驚きの声を上げたのは泰子だった。その声に診察室の掃除をしていた正子が飛び出て来た。
正子の視線は素早く薫の右手に向けられる。
手には包帯はなく、切断された四指の根元が縫合され赤黒くむき出しになっていた。
「ぁ……」
震える正子の後ろから、白衣姿の誠がゆっくりと顔を出す。
「誠君、君が入院している時、何を感じてどう思いましたか?」
薫の言葉の意図が掴めず誠は無言のまま薫を見つめる。
「今回、入院して嬉しかったとか、楽しかったとか……」
「私にそんなことが思えるはずがないでしょう?
自分の身代わりになってくださった橋本先生のことを思うと私は苦しくて、切なくて、申し訳なくて……」
「私も初めて患者さんの側になってみて、気付いたこと、気付かされたことが多々ありました。見える傷は気にしていたけれど、病気や怪我と同時にできた心の傷と私は今日まで向かい合おうとはしなかった」
薫が静かに顔を上げる。
「この橋本醫院をあなたに差し上げます。

どうか、子供の頃のことを忘れず医師の責務を全うしてください」
薫はまるで花がほころぶかのように笑った。
「でも、もう一息。今すぐって訳にはいきませんよ。
私にはまだあなたに教えなければならないことがたくさんあるから。
そして私自身、傷ついた心に寄り添う見えない医療を本格的に考えてみたくなりました。

私たちは何かを失った訳ではない。
寧ろ、今までの医療に欠けていたものに気付くきっかけを得たんです」
薫のそばに泰子、正子、誠が集まる。
「先生、あの日、ここでこの四人で新たな出発をしましたよね?
今日は再出発の日としましょう」
白髪の混じった僅かに乱れた髪を手で直しながら泰子が言った。
「生きている限り、先生が望むことはどんなことでもさせて頂きます」
涙声で正子が言った。
「この手は、指はあなたのものです。
これからはどうか遠慮なく、好きに使ってください」
誠が薫に手を差し出した。
薫が護った若く張りのある繊細そうな差し出されたその手に、薫は四指のない己の手を堂々と重ねた。
「おかえりなさい、橋本先生っ!」
誠は薫に抱き着いた。

 

週が明けた朝から薫は、誠共に診察室で患者を診た。
気になることがあれば薫自身が問診し、誠に対して指示を出す。
呑み込みの良い誠はすぐに薫の意図を理解し、同じことを繰り返し教える手間は殆どなかった。薫は次第に理屈をつけては診察室にいる時間を減らし始めた。
気付けば薫は自室に籠ることが多くなっていた。


薫が目指した医師像は触診や手術無くして成立はしない。
目の前に患者がいても、自分にはその苦しみの元になる患部に触れることが出来ない。

利き手で覚えた繊細な感触を、安易に左で感じ取れる訳もなく。
衛生兵の頃、『ヨーチン野郎!』と成すすべもなく蔑まれた時と同じ敗北感を薫は味わい始めていた。伊達から論文を書いて発表してみてはどうかと勧められもしたが、左で書く練習をしても未だ読めるようなものは書けない。
誠を救ったことに一片の悔いは今もない。
しかし、第一線で医療に携わっていた自分がある日、突然、指を奪われ、日向の犠牲の上に成り立った医師の道が閉ざされることが、こんなにまで自分を空虚にしてしまうのかと薫は今更ながらに実感した。自分がしっかりしなければ、誠や正子を追い詰めることになると頭では理解していても、身体は鉛の服を羽織ったかのように重く動くことさえ困難になっていた。


このままではいけない
自分が駄目になってしまう
自分が駄目になると言うことは、誠までもを巻き込んでしまう


多くの患者の喧噪を離れの自室で耳にしながら、薫は自分が立ち上がり動く口実を考えた。

ただ、立ち上がるだけの理由を必死に考えた。

 


「先生、おはようございます。……橋本先生?」
翌朝、食事に来ない薫の部屋の前で声を掛けたのは泰子だった。
しかし、いくら待っても中からは何の応答もない。
俯き加減だった泰子の表情が俄かに変わり、扉を一気に開いた。
部屋には誰もいない。
あまりに整頓されいることに泰子は冷水を浴びるような感覚がした。
「若先生!正子さんっ!!」
泰子の声に二人は薫の部屋へ駈け込んで来た。
部屋を見てすぐにふたりも薫の不在に気付いた。
「誰か先生から何か聞いてませんか?
どこかに出掛けるとか、誰かに会いに行くとか」
苛立ちながらふと視界に入った薫の机の上に便箋が一枚置かれていた。

 

『医師になって初めての休暇を頂くことにしました。
懐かしい人たちに逢ってこようと思います。
必ずここへ戻ります。
留守をよろしくお願い致します。 橋本薫』

 

たどたどしく書かれた左手文字の置手紙を三人は無言で見つめた。


2017,1,21

 

 

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千と千尋…を見ながら、23日up分まで原稿を完成させました。

北の大地は連日、こんな感じの天気予報が流れる。

もう、数秒まてば-20以下の地域が普通に登場する。

 

薫、家出しちゃいましたね。ショックなうさぎ

これが大映ドラマだったら、北海道か沖縄にでも行って入水自殺となるのでしょうか。

(冬の北海道の水は冷たいからやめようねてへぺろうさぎ

私的には、沖縄にでも行って泡盛飲んでべろべろになって、三日くらい寝ないで唄って踊っていたら、死ぬ気なんて失せるんじゃないかって思うんだけどね。あんぐりピスケ

 

で、薫は自分はもう若くはないのだと認めることで、変化が出てきます。

変化の中で新たな・・・が。ここまで落ち込んだ薫を救えるのは誰なのか?

 

では、おやすみなさい。

娘は明日も学校だわ。ショックなうさぎ

 

明日も必ず更新します。