玄関先にはずぶ濡れになった男が息を切らせ座り込んでいた。
「どうされたんですか!?」
泰子がすぐさま声を掛ける。後から来た誠と正子もそこへ並んだ。
「かかぁが納屋の屋根から落ちて……
右膝の下が腫れて色も変わって。すげー痛がってるんだ」
「落ち着いて、奥さんの様子をもう少し詳しく教えてください」
誠がメモを取り始めた。

 

「たぶん、橋本先生の方が私よりも先にここへ戻ることになるでしょう。
状況的には足の骨折で間違いはないと思いますが、念のためにまずは私が診て来ます」
誠は必要そうな物を物色し、手当たり次第に診察鞄に詰め込んでいく。
「雨も風も強くなって来ているから、十分に気を付けて」
正子が黒い雨合羽を差し出す。
「単なる骨折ならば風雨が収まってから、患者さんを安全にここへ搬送する策を講じます。

夕方には戻ります。では、行きましょう。案内をお願いします」
誠は迎えに来た男と共に、風雨の中を飛び出て行った。
「生死を彷徨ったあの小さな男の子があんなに逞しく、橋本先生の片腕として活躍するなんて……」
誠の後ろ姿を見つめながら泰子が言った。
泰子の目にはその姿が凛々しくさえ見えていたのだが、母である正子は誠の後ろ姿に何か途轍もなく大きな不安を感じずにはいられなかった。

 

増水し稲の倒れた無残な田んぼを横目に、誠は男に連れられ大きめの農道から分岐した山へ向かう細い道に足を進めた。急な勾配に足に力が入る。
足元には山の上から川のように雨水が流れ出している。
誠は川を遡上するかのように、踏ん張りながら一歩一歩、坂を踏みしめる。
風雨は一層、強くなっていた。

 

誠が往診に向かってから3時間を過ぎて、薫はずぶ濡れになって戻った。
「酷い風雨です。今日は普通の患者さんは来ないでしょう。
寧ろ、ここを必要とする人がいればそれは……」
「それが先ほど、若先生が……」
正子から差し出されたタオルで身体を拭きながら話す薫の言葉を遮ったのは、泰子だった。
泰子は誠が骨折であろう患者を診るために出掛けたことを伝えた。
報告を受ける薫の顔が、見る見る険しくなっていく。
「そのお宅と言うのは、村の北側の外れにある山の……?」
「えぇ、確か山を通って向こう側にお宅があると」
薫は慌てて濡れた雨合羽を羽織り直す。
「先生!?」
尋常ではない薫の様子に正子の声が震える。
「私は今、その山のそばを通って帰って来たんですが、大雨の影響で普段、あり得ない場所から水が湧き出ていたんです。
いつもはないような小石が転がってきていたり、何か奇妙な音も聞こえました。
土砂崩れがいつ起きてもおかしくはないんです」
「誠……」
恐ろしさでその場に座り込んでしまった正子に薫は言った。
「大丈夫。誠君は必ず私が無事に連れ帰ります。
彼はこの橋本醫院の跡継ぎなんですから」
それは、薫自身が自らに言い聞かせた言葉でもあった。

 

まだ午後になったばかりだと言うのに、暗雲は視界いっぱいに広がりあたりは薄暗い。そんな中、息を切らせ薫は走った。
ここへ来て、すべてが順調だった。幸せだった。
心のどこかで幸せを感じながらも、それに恐怖も感じていた。
再び自分は大きな何かを失うかも知れない予感が、全身を蝕んでいく。
「死ぬな、死ぬなよ、誠君。オレでさえまだ行くことが許されない向こう側へ君が先に行くなんて。まだ……まだ若すぎるんだよ。君が行くには!」


往診を終えた誠は帰路、山を下っていた。
不幸中の幸いで怪我人は骨折で済んでいて、応急処置を施し天候が回復次第、橋本醫院に搬送し入院させることを決めて来た。
痛み止めで骨折の痛みを凌ぐのは辛いだろうが、この風雨の中、移動させるリスクを考えると誠は自分の選択は正しいと思った。
昼間だと言うのに、垂れ込めた雲は夕刻の闇を作り、雨は誠から視界を奪い、風は何かが起きる予兆となる音をも隠し続けた。
背筋がぞくりとした。雨に打たれ続け風邪でもひいたのだろうか。
腕時計に目をやる。薫はもう病院に戻っている頃であろう。
取り合えずは急患を想定し、急ぎ帰ることもないだろうと思った。
視界を得られない豪雨の中、目を凝らすと僅か先に農家の作業小屋を見つけた。誠はそこで雨足が弱くなるのを待つことに決め、小屋を目指した。


「誰かいますか?」
廃墟のような古い木造の小屋には、鍬、鋤、鎌を始め様々な農機具が置かれていたが、人の気配はなかった。佇まいは古いが、雨風だけは凌げそうだ。
誠は小屋の中に入った。

 

「誠君!誠君!!」
薫は誠が上った斜面を叫びながら歩いていた。
一本道になっていて、獣道に入らない限りは誠と出会えるはずである。
しかし、どんなに叫んでも誠は答えず、視界に入ることもなかった。
ゴゴゴッ、ゴゴゴッ……
低い音と共に地面が微かに動いた気がした。山は既に限界を超えていた。
「誠君!どこだ、どこにいるんだっ!?」
叫んだ先に見えたのは、農家の作業小屋。
どうか、ここにいてくれと薫は祈りながら小屋へ走った。


「誠君、ここにいるのか!?」
人気のなかったはずの小屋の戸が大きな音を立て開き、薫が飛び込んできたことに誠は驚いた。
「橋本先生!?どうしてここへ?」
不思議そうに薫を見つめる誠に近づく。薫は誠の手を取り出口へ向かおうとする。
「ダメだ、ここはダメなんだ。この雨で山が危ない。土砂崩れが起きる!!」
薫の言葉の意味を理解する間もなく、不気味に響いていた音が、動きが、
一気に弾けた。突然、地面が動き出し床の板がバラバラになる。
小屋は崩れそうになりながらも、土砂に押し出されながらあり得ない形に潰れていく。
恐怖で足を竦ませ動けない誠。鍬などが掛けられた板壁が容赦なく迫って来る。
自分ひとりだったらすぐに逃げられるが、誠を置いて逃げることは出来ない。
薫は迫りくる板壁に背を向けて、咄嗟に誠を抱きかかえた。
「うぁぁぁぁっ!!」
誠を抱きしめた指に焼けるような痛みが走る。


雨が薫の叫びをかき消した。

 

 

雨は小降りになっていた。
意識が戻った誠は目を凝らして周囲を見回すが、どこにも僅かな光を見つけることは出来なかった。土砂や材木に挟まれ全身が痛い。痛いが、骨折などの大きな怪我はないと安堵した。自分に覆いかぶさっているものが薫の身体であると気付く。
「橋本先生!?」
誠は自分を抱きかかえたまま気を失っている薫に、必死に呼びかける。
「先生、橋本先生!」
薫はその呼びかけに微かに動いた。
「大丈夫ですか、橋本先生!」
「あ、あぁ……」
薫の声に誠は一気に身も心も脱力した。
次第に状況を把握する誠。自分を探し庇いこうなってしまった薫を前に、涙があふれ出る。
「どうして!?どうして俺なんかをここまで?
先生がいなければみんなが困るのにっ!!」
薫の胸の中で誠は泣き叫ぶ。
「犠牲になっていい命、困る命なんてないんです」
薫は言った。
「誠君、医師としての君に、お願いがあります。
私の胸ポケットにペンライトがあるんで、それを手にしてください」
「は、はいっ」
誠は薫の胸元を探りペンライトを手にした。
『カチッ』
プッシュボタンが生きていて、橙色の明かりが灯った。
そんな僅かな灯りであっても顔色が悪く、薫の身に何かが起きていることは誠にもすぐに理解できた。
「私の右手……指を確認してください」
そう訴える薫の瞳は、何かを悟っているかのように思える。
「指、ですか」
我が子を抱き護る母のような薫の腕を辿るように触れ指先まで行こうとしたが泥の中、誠の指先は薫の右手の指をどうしても探し出せない。
次の瞬間、辿る誠の指先に雨や土砂とは違ったぬるりとした感触を捉えた。
医師である誠だからこそ、間違えはしない確かな、そして残酷な感触。
まさか、まさか……
自分の後頭部を護る薫の手を強引に土砂から引き抜き、ペンライトを当てると、そこには親指以外の四指が鍬の圧迫で押し潰されるように切断された血まみれの手があった。
「ゆ、指が……指が」
誠の言葉に、橙色に照らされた指のない自分の手を薫は見た。
「誠君、怪我は……?」
「私は大丈夫です。私は、橋本先生が護ってくださったから……」
良かったと薫は微笑んだ。


「もしかしたら私は助からないかも知れません。その時はどうか……」
薫の言葉を誠は大声で遮った。
「何を言ってるんですか?何を弱気になっているんですか、あなたは!?
海軍での悲惨な戦いで生き残ったんでしょう?
あなたはいつも仰っていたでしょう。自分の命は自分だけのものではない。
自分は多くの人によって生かされて、今があるんだって。
私にはまだ、橋本醫院を継ぐだけの力量なんてないんです。
もっともっと教わりたいことがあるんです、伝えて欲しいことがあるんです。
私は諦めません。絶対に諦めませんからね」
思うように身動きも取れない土砂の中で、誠は手で薫の動脈を押さえ止血する。
しかし、ただ強く抑えては血が通わず腕が壊死してしまう。
誠は抑えた動脈の圧迫と解放を繰り返す。
「先生に助けてもらった命の恩返し。俺、ここでしますから」
疲れ果て睡魔に襲われそうになりながらも、誠は止血を続けた。
薫は既に話しかけても何も答えなくなっていた。

 

いつの間にか雨は止んでいた。
意識を失いかけても誠は止血を止めることはなかった。
しかし、もうそれも限界に近づいていた。自分がこの手を動かさなくなった時、薫は確実に死を迎えると思うと、誠は体力の限界を超えてもなお、無意識に止血を続けている。

もうダメなのか……

絶望が過った時だった。
「橋本せんせーい!誠せんせーいっ!!」
遠くから人の気配と声がした。
誠は持っていたペンライトを灯すと、それを出来るだけ高く掲げて振り回した。
「あそこに光が見えるぞ!?」
「間違いない、あそこだ」
「急げ!!」
その言葉に誠は安堵し、一気に意識を手放した。

 

2017,1,20

 

 

*****

 

思い切って指を四本、落としてみました。

真っ逆さまに奈落へGO!状態です。

 

誤字は明日、また探します。今夜はもう限界超えたわ。