『海蛍』は特別な趣向を持った方に向けられた不定期連載小説です。

お付き合いの「いいね」は必要ありません。

次回、普通のブログupの時に、またお付き合いください。

 

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正子が誠に重湯を作り与えると、久々の食事に満足したのかすぐに眠った。
その顔は今までにない穏やかなものだった。
それを見届けた後、次に薫が立ち上がった。


ふっくらと炊き上げた白米を泰子や正子が心を込めて握る。
ミツが教えてくれたみりんや様々な調味料を加えた味噌を鍋で焦がさぬようにと薫が丁寧に煮詰め、それを握った白米に塗り網で焼き目を付ける。
薫はミツ直伝の味噌おにぎりを作りあげると皆に振舞った。


既に日は暮れていたが、布の外された部屋は誠を囲んで幸せの光に包まれていた。
「美味しいっ!橋本先生って料理の才能もあったんですね」
泰子が目をぱちぱちさせながら、嬉しそうにそれを頬張る。
「お医者様ってもっとご馳走を食べているのかと思ってました……」
正子も久々の炊き立ての白米と絶妙な味噌味に、顔を綻ばせる。
「これこれ、この味!これが食べたくて私は誠君の治療の手伝いに名乗りを上げたって言っても過言じゃない」
伊達も上機嫌で既に三個目に手を伸ばしていた。
「伊達先生ったら」
伊達が連れて来た看護婦たちも遠慮することなく二個目を手にして笑った。

 

誠が助かり、何年かぶりに白米を堪能した正子は、本来こんなに穏やかで美しい人だったのかと思えるほどの別人になっていた。夫を亡くし、無学なまま誠を抱え女手一つで育てなければならない苦労。人に騙され馬鹿にされ、いつしか正子は人を疑い呪うことしか出来なくなっていたのかも知れない。その穏やかだった正子の表情がふと険しくなった。
「あの……今回の誠のお医者代のことですが……」
そう言うと同時に正子は項垂れ俯いてしまった。
笑っていた皆が正子の言葉に無言になる。
「お医者様なんて先祖代々、掛かったことなどないからどれぐらいお金を払えばいいのかが本当に私には分からないんです。
橋本先生始め、こんなにお偉い先生や看護婦さんが駆けつけて下さって、その方たち全てに相当のお礼をすることは当然だとわかってるんです。
けれども、御覧のとおりのあばら家で家財と呼べるものも何もなくて。
いえ、田畑売って何とかなるなら、すぐにでも売ります。
でも、騙されてこんな満足に収穫できることのない土地を掴まされて、この土地自体、売れるはずもありません。この土地を受け取ってくださるのなら、それでいいと仰ってくださるのなら
私たち母子は明日にでもここを明け渡します。
こんなことしか出来ないけれど、受けた御恩は私たち、生きている限る忘れることはありませんっ」
正子は姿勢を直し改めて皆に向かって土下座をした。

「誠君を患者として治療を始めたのは私です。
あなたは再三、お金が払えないとちゃんと私に伝えていてくれました。
私はあなたから懐具合を伺っていながら、治療を開始したんです。
私が何故、ここに開業したと思いますか?
自分も貧しい無医村で生まれ育ったからです。
戦前も戦後も関係なくなく日々、進歩する医学の恩恵に与れず死んでいく命があってはならないんです。他国との戦いは終わりました。しかし、医師対病との戦いに終わりはないんです。救える命を救えない、救わないなんてことが許されるはずがないんです。
治療費、伊達先生へは私からお渡ししますから安心してください。
私へは誠君が成長して働くようになったら、月100円ずつ私に払ってください」
薫が正子に言った。
「おいおい、勝手に話を進められても困るな。
橋本先生からはちゃんと今回の私への労働対価を頂くつもりでいるよ」
おにぎりで済むなど誰もが思ってはいなかった。
莫大な金を掛けて開業しながらも、一か月を過ぎても患者のない薫には正直、もう資金的には限界に近いものがあった。表情には出さないものの、薫の胸中もまた伊達や大学病院への薬剤代の支払いを考えると息苦しささえ覚えた。
「で、橋本先生。実は私は来月中旬から東北の寒村を中心に医療救世隊を組織して、経済的に恵まれない方たちに医療の無料奉仕を行うために出向くんだ。
後ろ盾は厚生省で活動にあたって、必要なものは何でも指定できるし使える。
休業となる医師には、休業補償も国からされる。
整形外科医として私に参加して欲しいと厚生省から打診されたが、私は条件をひとつ出した。それは有能なサポート役となる若手医師の同行だ。
このプロジェクトを単に医師派遣で終わらせるのではなく、日本医療の後継者を育てる位置づけにしたいと成瀬教授も後押ししてくださった。
約一か月、私と共に東北を回ってはくれないだろうか?

それが今回の私への支払いと言うことでな」


伊達の技術は薫に取っては成瀬と同様に神の領域である。
今回、伊達に助けられたこと自体、今だ信じ難いというのに、その伊達から自分の技術を継承させるために東北への同行を許される、いや、求められるなど……
「楽しい旅行などではない。医学の限界、病の前には人間は無力なのだと痛いほどに味わい叩きのめされるやも知れない。
たかがひと月だが、されどひと月。このひと月はどんな医学書にも勝るだろう。
いい返事が欲しいな、私は」
伊達が笑った。
「橋本先生、何を躊躇ってらっしゃるんですか!?
こんな幸運はもうないかも知れないんですよ。
後のことは私に任せて、伊達先生が存分に治療できるようにお手伝いなさってください!」
泰子が急かせるかのように言う。
「あ……ありがとう、ご、ざいます……」
嬉しさで薫の身体が震えて来る。
「あ、あの……私は一体、どうしたら……?」
話が見えない正子が不安げに皆の顔を見回す。
「大橋さん、橋本先生は来月になったら暫く私と一緒に東北の無医村巡りをすることになりました。あなたから頂くべき治療費は、橋本先生が私に同行して働いてくれることで返済したとみなします。ねっ、橋本先生?」
伊達の言葉に薫は涙を袖で拭いながら、正子を見つめた。
「伊達先生のご配慮のお陰です」
正子は薫の表情と言葉で、自分が何の債務も負わない身であることをやっと悟った。
「ありがとうございます。本当にありがとうございますっ!!」
正子は何度も頭を床に押し付け頭を下げた。
「今回の件で橋本先生の医師としての技術や人となりに触れられたことは、私にとっても大変良かったことでした。で……
実はもう一つ、橋本先生にお願いがある。
今、大学病院には、裕福になり始めた者たちが病の大小問わず押しかけてくるようになっているんだ。より良い医療をという気持ちはわかるが、それらの患者を全て受け入れていては大学病院が持つ、本来の役割が果たせなくなる懸念がある。
東北から戻り次第、大学病院から信頼のおける地方開業医院に患者をどんどん回そうという話が出ていてね。これだけの腕を持つ君を失業者にさせておくほど、日本医学会は馬鹿じゃない。帰ってきたら大学からの患者の受け入れをお願いしたいんだよ」
「橋本先生!」
泰子が思わず声を出した。
「北村婦長、これからは休みが取れないとボヤくほどに忙しくなると思うけれど、橋本先生のため、患者さんのためによろしく頼む」
伊達の言葉に泰子も涙が止まらない。泰子は首を大きく縦に振った。
「橋本先生、伊達先生からのお話を受けるのでしたら、是非とも私からも提案があるのですが……」
泰子が正子を見つめた。

 

 


「いってらっしゃい」
「道中、お気をつけて」
「橋本先生、風邪ひかないでね!」
伊達から手配されたタクシーが橋本醫院の前に横づけされ、薫は鞄を手にしながらその車に乗り込む。泰子、正子、誠の三人が薫を笑顔で見送る。
「もしも、何かあったら……」
「先生、私は子供じゃないんですよ。先生のお留守の間、するべきことは伊達先生とも何度も確認しあっていたでしょう?後は先生がご無事に戻って来る、それだけです。
何も心配することなく、存分にお勉強なさってください」
泰子の迫力に薫は苦笑する。

 


あの日、患者が増えるであろう橋本醫院に信頼できる働き手が欲しいと、泰子から進言された。陰日向なく働き、病に苦しむ者に寄り添える思いの強さのある者。
泰子は皆の前で正子を橋本醫院に住み込みでの働き手として迎えたいと言った。
読み書きも満足に出来ない正子は当然のように、即座に泰子の申し出を断った。
「こんなロクに日も当たらない、隙間だらけの倒れそうな家で暮らしていて、誠君がまた病気になったらどうするの?住み込みと言っても私と一緒だし、仕事もキツイって覚悟はしてね。
でも、衣食住と学ぶ権利だけは、私と橋本先生が保証してあげるわ」
「まなぶ…?学ぶって誠が学校へ通えるんですか!?」
「もちろん。それに学校に行かなければ学べないってことはないわ」
泰子の真意が掴めず、小首を傾げる正子。
「あなたには私と橋本先生が責任をもって俗にいう『読み書きそろばん』をお教えします。それを自力で収めれば、あなたはもう何処へ行っても誰からも馬鹿になんてされない。仕事と勉強の両立は大変だと思うけれど、誠君の未来のために頑張りましょう」
泰子はそう言うと正子の手を握った。
「誠が学校に……それに私まで!?」

 

 

誠の回復を確認し帰宅した翌日に、正子母子の引っ越しのための車や人手を手配し差し向けたのは伊達だった。ロクに家財もない正子と誠はまさに着の身着のままで橋本醫院にやって来た。泰子が住む隣の部屋の四畳半を与えられ、そこに入ると真新しい運動靴と
ランドセルが木目美しい座り机の上に置かれていた。
「かあちゃん、靴だ!真っ白な靴だよ。それにけんちゃんと同じランドセルもある。
机だって!こんなの持ってる子いないよ。な、なっ!?かあちゃん!」
誠は部屋へ飛び込むように入ると、それらを愛おしそうに撫で頬ずりをする。
部屋の隅に置かれた柳行李には、薫に頼まれ泰子が用意した二人分の着替えがあった。
「仕事は私に付いて覚えてもらいます。で、仕事の時はこれを着用してください」
泰子から手渡されたのは、純白の制服だった。
眩しすぎる白に、正子は思わず目を細めた。
「白は清潔と揺るぎない信用・信頼を表す色です。

この色に恥じない仕事を一緒にしていきましょう」
正子もまた、初めて手にする真新しい純白の制服に何度も触れた。


それと同時に、伊達は弁護士の山本に事情を話して正子から不当に田畑を巻き上げた者に法律に則り然るべく対応を行うと通告させた。薫の病院で働くことの決まった正子母子にはもう、田畑は必要なかったが、山本はそれをおくびにも出すことなく淡々と交渉をして、騙し取られた田畑を詫び金も含めた、正子には想像も出来ない程の金額で買い取らせた。
金の入った預金通帳を山本は薫を通じて正子に渡した。
「誠君のため、ご自分のために大切に使ってください。
これはご主人があなた方に残されたものなのですから」
正子は何度も薫に頭を下げた。


静かだった橋本醫院は一気に賑やかになった。
薫の元を去る者に涙した日が嘘のように思える。
今はこうして、人が集う家を持てた。自分の肩に彼女らの生活がかかっている。
薫は笑いながらも気を引き締めた。


そして今日は薫が伊達と共に東北へ旅立つ。
「先生が戻られる頃には、正子さんは私と肩を並べて働けるようになってますよ」
「私、先生がお留守の間、死ぬ気で勉強します」
「先生、俺、学校でたくさん勉強するよ。はなまるたくさんもらうんだ。
先生がいない間、俺がかあちゃんと婦長さんを護る。
絶対に護るから安心して、困っている人を助けてくれよな」

三人の決意が薫の背を心地よく押す。
「では、行って参ります」
車に乗り込む薫。動き出した車を誠は駆け足で見送る。
「先生、頑張れよ!頑張れ、橋本先生っ!!」
土埃を巻き上げ走る車が次第に遠く小さくなり、そして視界から消えた。
「さぁ、私たちも先生がお帰りになるまでに頑張らなくちゃ」
戻って来た誠の頭を撫でながら、泰子が言った。正子と誠は黙って頷く。

錆びついていた歯車が、忘れていた幸せを奏でるかのように静かに動き出す。
誰もが満たされた気持ちで明日を信じ見つめていた。

こうして橋本醫院は薫・泰子・正子・誠の四人で新たなスタートを切った。


2017,1,18


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我が家の近くに『〇〇醫院』って毛筆手書きの看板を掲げた個人医院があります。

いつも仰ぎ見ながら「かっこいいなぁ」って思ってました。
薫を医者にしようと決めた時、真っ先に脳裏に浮かんだのが実はこの『醫院』の看板。

多分、うちの娘なんて読めないんじゃないのかな。

で、薫に救われた誠が実は後に薫の運命を左右することになります。
(あくまで脳内予想図)
「先生、好きです」なんて類のものではなく……やべ、お口チャック!
この誠も実は、正月ダイエット休止して餅食ってた時には、想像もしてなかったキャラでした。
既に明確なラストを決めているだけに、寧ろ途中で自分も想像しえない展開に焦っていたりします。でも、幸せを描くのが苦手な私。何だか全身がむず痒いです。(ひねくれ者サッ