『海蛍』は特別な趣向を持った方に向けられた不定期連載小説です。

お付き合いの「いいね」は必要ありません。

次回、普通のブログupの時に、またお付き合いください。

 

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翌日以降、薫と泰子は村をくまなく回り住民に挨拶をし続けた。
罵声を浴びるだけならマシだった。
畑のたい肥となる糞便を頭から掛けられたり、子供を唆し石を投げつけられることもあった。
それでも薫は怒ることもなく、何かあればいつでも自分の医院に来るようにと声を掛け続けた。戻り泥にまみれた白衣を手洗いする薫からそれを引っ手繰るように奪うと、泰子は悔しさを滲ませながらざぶざぶと洗い始めた。
「婦長、申し訳ありません。オレが不甲斐ないばかりに……」
手荒く白衣を洗う泰子の背に向かって薫が呟いた。
「橋本先生は何も悪くなんてないじゃないですか。
先生が何も悪くないから、悔しいんですよ、私は」
戦場で死と隣り合わせに看護婦として働いていた泰子が、やり切れない表情で言った。
「この日本って狭い国の中で、同じ日本人同士でどうしていがみ合わなければならないんでしょうね」
「私が生まれ育った土地も田舎で無医村でした。
搾取されるだけの小作人として生まれ落ちた瞬間から、人生は決まったようなものでした。
私のように夢を現実にできる者などあり得ない世界なんです。
金のない苦しい生活の苛立ちを抵抗できない我が子にぶつけ憂さを晴らすしかない。

やがて貧しさは娘の身売りという形で家族でさえ引き離してしまう……
私自身、医者の存在は知ってはいても海軍に入るまで医者とかかわったことなど皆無でした。この村の人たちもそうして生きるしかなかったんです。

私にとっての戦後復興とは、誰もが必要に応じて医療の恩恵にあずかれ、学ぶ自由が確かに保証された時だと思っています」
その言葉に思わず振り返る泰子。薫の眼差しは落胆などしてはいない。

希望の光が宿っていた。
「もしも婦長が辛いのならば、私から大学病院へ戻れるように……」
薫の言葉を泰子は遮る。
「従軍看護婦としてあの戦火をくぐったことを思えば、こんな子供の虐めみたいなこと気になんてするものですか。ここまで来たら私にだって意地はあります。えぇ、いつかこの橋本醫院の待合室から患者が溢れかえるくらいにしてみせますから!」
泰子は泡の付いた白衣を握ったまま笑みを見せた。
「ありがとうございます」
薫も泡だらけの手のまま、泰子に深く頭を下げた。

 

その後、一か月が過ぎた。
橋本醫院は玄関先に汚物を撒かれたり、ガラスを割られたり、動物の死骸を投げ入れられたりと嫌がらせは止まることはなかった。それでも薫は、いつ患者が訪れてもいいように愚痴をこぼすことなく泰子と共に医院を護っていた。


茹だるような夏を迎えたある日のことだった。
子供たちが笑いながら医院の前を駆け抜けて行く姿を、白衣姿の薫は目を細め見つめていた。舗装もされていない土埃が舞うでこぼこ道を、子供らがキャッキャッと騒ぎ走る。
薫はふと最後尾を走る7歳くらいの坊主頭の男の子に視線を留めた。
罵られながらも村を回ったせいで、この村に住む者たちの『事情』もある程度、知ることができていた。少年は大橋誠。確か父は戦死し、母親が不毛な小さな畑を耕しこの幼い息子と二人暮らしをしていた。貧しさからだろう、その子だけ靴は履いておらず石が転がる道を走りにくそうに皆の後を追いかけていた。幼いころの自分を見ている様な気持ちになった。貧しくとも夢だけは捨てるなと願いながら、薫は誠を目で追い続ける。
「!?」
穏やかだった薫の表情が瞬時に変わった。
「婦長っ、北村婦長っ!往診の支度を直ぐにお願いします。早くっ!!」
院内に薫の大きな声が響く。
薬品在庫のチェックをしていた泰子は、初めて聴いた薫の大きな声に驚き薫の元へ小走りでやって来た。
「橋本先生、一体なにが……」
「私は先に出ます。あそこ、神社裏の母親と二人暮らしの男の子のいる家!
そう、大橋さん。大橋さんの家で待っていてください」
「待っていてくれって、先生。患者は誰なんですか?どこにいるんですか!?」
「患者はそこの家の男の子、私が家に連れて帰りますから!!」
そう叫ぶと薫は白衣をなびかせ子供たちの後を追いかけた。
陽炎が揺らめく道、薫の姿はだんだん小さくなり泰子の視界から消えた。
薫の尋常ならぬ様子に、泰子もすぐに支度をすると医院を飛び出た。

 

突然の泰子の来訪に、仕事の手を止め怪訝そうに見上げる女。
大橋正子はこの土地で代々、小作人として生きてきた。
夫である義一は徴兵され、終戦直前に戦死広報が届いた。
義一が戦死したと知れ渡ってから、身内のいない正子は半ば騙された形で肥沃だった田畑と、昼過ぎには山陰となってしまう不毛な田畑を交換させられ、生活は見る見る間に困窮していった。ひとり息子の誠は今年小学校1年になったが、貧しさから学校へ通うことは許されなかった。
『所詮、小作人の倅。なまじ読み書きなど覚えてもそれを生かせる術もない。
小作人に学問は不要』
正子はそう言い誠に家の手伝いをさせていた。

今日は早くに手伝いを終え、誠は同じ年頃の子供らと遊びまわっていた。
そんな時に現れたのが看護婦姿の泰子だった。
同性でありながらも、泰子は学校も出ていている。
お医者様と呼ばれる者の片腕となり、男性と肩を並べ働く泰子に正子は少なからず劣等感を抱いていた。泰子が着ている眩しいくらいの白衣も正子には腹立たしかった。
自分は物心ついてから、狭く汚い家や畑で常に泥にまみれて生きてきた。
幼い頃に庄屋の家に隣村から花嫁がやって来たが、その時目にした純白の花嫁御料が眩しかった。気付けば自分は花嫁衣裳はおろか、白い着物や服、下着すら身に着けたことがなかったのだ。
「そんな所に突っ立っていたら汚れるよ。大体、私の家に何の用があるってんだい!?
我が家はこの通り、金なんてないんだよ。死にそうになっても、いや、死んでも
お医者になんて診てもらえる余裕なんてないんだよっ」
苛立つ正子は泰子を睨みつける。
「今、橋本先生がここへおいでになります。
先生が来れば、何があったのかをわかるように説明してくれるはずです。
お願いですからあと少し、ここで待たせてください」
尋常ではない薫の様子を思い出しながら、泰子は正子を怒らせぬよう、平身低頭し続け薫が来るのを待ち続けた。午後になりすぐに山陰になり始めた正子の家の前で、泰子は汗をぬぐいながらはるかに続く道の彼方を見ていた。陽炎の揺らめきの中、泰子は視界に動くものを捉えた。それが白衣を着た薫であり、背には正子の息子である誠を背負っているとわかるまでそう時間はかからなかった。
「先生っ!」
鞄を抱えたまま泰子が走り出す。

やっと薫と合流できた泰子は、何があったのかと薫に問おうとしたが、薫の表情は今まで見たこともないほどに切羽詰まったものだった。
「橋本先生。一体、何があったんですか!?」
「この子は破傷風に感染しています。これから二週間ほど、私たちに休むことは許されなくなるでしょう。北村婦長、覚悟しておいてください」

薫の背にいる誠は、数時間前の元気な面影は消え失せていた。
靴を履かない足は泥に塗れ、左足だけが泥の中から異様な色を覗かせていた。


2017,1,5

 

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この頃って破傷風ってポピュラーな病だったと聞いてます。今も予防接種に「破傷風ワクチン」があるんですよね。しかし、なんて幸薄い男なんでしょうね、薫……

おばちゃんがもっと泣かしたるからね。とびだすうさぎ2