『海蛍』は特別な趣向を持った方に向けられた不定期連載小説です。

お付き合いの「いいね」は必要ありません。

次回、普通のブログupの時に、またお付き合いください。

 

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「せめてオレが医者になるまで生きろ、なっ?
お前の身体はオレが治す。必ず治すから!」
そう言いながら田中の両肩を掴んだ薫は、肉の削げ落ちてしまった田中の骨の感触に驚き手を止めた。
「だったらお前、せめて一発で合格してくれよ。
落ちて次回ってのは俺、キツイからな……」
田中の口角は上がるが、目は笑えずにいる。
「あぁ、一発で合格して見せる、約束する。
で、お前も受験するんだよな?」
薫の言葉に田中は驚き、不思議そうに薫を見上げた。
「いや、俺はこんな状態だし……」
「お前、オレだけに受験させようってのかよ。海軍で敵前逃亡なんてしたら重罪だぞ。
ここまで身を粉にして頑張って、その成果も結果もわからずになんてお前、それでいいのかよ!?」
薫の声は涙声になっている。
「ここで勉強しよう。オレ、毎日来るから。必ず来るから。
一緒に合格して、一緒に適切に医療を受けられない人たちのために開業するんだ。
患者を救う前にお前がコケてどうすんだよ」


田中自身、薫の生い立ちは聴かされていた。
死にゆく自分の無念よりも、姉敏子や日向、アランに続き自分までも薫の元を去らなければ
ならないことを思うと、再びひとりこの世に取り残されるであろう薫が不憫でならない。
今の自分にできること。
それは自分の命を削ってでも、薫の陰日向となり最後、国家試験の合格となるまで見届けることだと思えた。夢である医師になれれば、薫にはまた新たな出会いもあるだろう。自分のことなど忘れてしまうほどのいい出会いが。

「……わかったよ。俺も受験する。お前と勉強して一緒に医者になる。

夢、諦めない。お前となら」
「医学部に進んで色々あって、お前に助けてもらえなかったら今頃オレは挫折してどこかに逃げていたと思う。慣れているとは言え、辛いんだ。人に蔑まれ否定され居場所を失うってさ。お前が一緒に歩んでくれたから、ここまで来られたんだ。
オレにも恩返しさせてくれよ。オレは弱くて今まで多くの人たちに助けられやっとここまで来られたんだし、一度くらい言われたいんだよ。『橋本のおかげで』って」
固い握手をした手に薫の顎から滴った涙がこぼれ落ちる。


窓の外の葉の落ちてしまった大木の枝先が風に揺れる。
枝を揺らす風には細かな雪が混じっていた。
自分たちに残された時間のあまりの少なさに、薫は息をのんだ。
逸らせた視線の先に、手つかずのままの食事を見つけた。
「飯、食えないのか?」
「あぁ。少しでもと思うんだけど、胃が受け付けなくてな。でも…」
「でも、どうした?」
「うん。ミツさんの作ってくれた味噌おにぎりの味、ここ最近、ずっと思い出してな。
中に梅が入っていて、外にはミツさん秘伝の特製味噌を付けて、炭でこんがり焼いて。
実の母と会った時、田舎で出されて母と一緒に食べたのも味噌おにぎりだったんだよな。
俺の中で大切な思い出だった。あれ以上の思い出も美味い物もないと信じてた。
でも、ミツさんの味噌おにぎりをお前と食ったら、同じくらい美味かった」
「わかった。明日から、いや、後で持ってくる。
すぐに下宿へ戻ってミツさんに頼んで作ってもらう。
それを食いながら一緒に勉強しよう!」
「いや、ミツさんも忙しいだろうし……」
「何言ってんだよ。あのミツさんが事情を知って黙っていると思うのか?
オレ、すぐにミツさんに頼むから。で、今夜、持ってくる。明日も明後日もずっとずっと」
薫はそう言うと、病室を飛び出した。

再び室内に静寂が戻った。
「バカだよな、アイツ。働いて勉強して、少し休めばいいのに。
自分のためにこの時期の大切な時間を使えばいい…の、にな……」
田中の視界が歪む。

 

薫は下宿へ走った。泣きながら息を切らせ走り続けた。
あのまま田中の傍にいたならば、きっと堪え切れずに号泣していただろう。
ミツの話のおかげで病室を去る口実ができたのは、有り難かった。
しかし、田中の告白はあまりに大きく辛いものだった。田中が懸念したように薫もまた、心の拠り所となる大切な人を失うのかと思うと、大声で叫びたい気持ちになった。


事情を聴いたミツは玄関先で泣き崩れた。
ミツを慕う田中を薫と共に孫のつもりで接して慈しんできた。
それが病で自分より先に死にゆくと知り、声を上げて泣いた。
「ミツさん、味噌おにぎり、作ってもらえますよね?」
ミツを抱き起しながら、薫は問うた。
「今夜の分、すぐに支度するから。で、明日からは三食用意したらいいの?私は四食でも五食でも言ってくれればいくらでも用意するからね」
ミツは悲痛な面持ちで米をとぎ始めた。

 

消灯近い時間、薫は病院の外から田中の部屋を見上げた。
田中の部屋にはカーテン越しにぼんやりと橙色の灯りが見える。
まだ考えることがあって眠れないのか、眠れない程に痛みがあるのか……
まだ温もりのあるミツの作った味噌おにぎりを抱きしめながら、薫は病院に入った。

田中は寝息をたてていた。
強い痛み止めを使った処置が施された跡があった。
やがて、これらの薬も効かなくなるだろう。痛みの中、我を忘れ悶え苦しむであろう未来を思うと、薫には田中を起こすことがどうしてもできなかった。
田中を起こさぬように、まだ温もりのある味噌おにぎりを枕元へそっと置いた。
明日から、自分も田中と共に病と闘うことを薫は誓った。


2016,11,28


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癌が不治の病であり、治療で苦痛をとの表記がありますが、これは昔、
自分が見た身内の様子を思い出しながら書いています。
でも、それは40年以上も昔のことであり、今は患者さんには大変な病で
あることに変わりはなくとも、治療法もましてや不治の病など断じる
ことはなくなりました。
ウチの毒母も20年程前に胃癌が見つかり手術をしましたが、今は
私よりも元気だし……
田中の病気の部位もあえて特定しての記述はしません。
あくまで素人のフィクションとして、読み進めてくださればと思います。

昨日もだけれど、upして一日くらいかけて誤字脱字修正をこそっとやってます。
何度読み返してもゲシュタルト崩壊してしまい、読んでくださる方には申し訳
なく思うけれど、upしてから読み返して修正です。