下宿の屋根を朧月が穏やかに照らす。
誰にも言えないはずのことを口にしてしまったであろう田中を放ってはおけず、そんな田中を薫は下宿へと連れてきた。
突然の田中の来訪にミツは喜びながらも一緒に食事をと声を掛けようとしたが、ふたりの様子がいつもとは違うことを咄嗟に感じて、しばらくして味噌を塗った焼きおにぎりとみそ汁を作って部屋まで持ってきてくれた。窓から差し込む月明りをぼんやり視界に捉えながらふたりは無言でおにぎりを頬張った。
「相変わらずミツさんの飯って美味いよな」
食うことに困らない、しかし肉親との縁の薄いらしい田中のこの言葉は、今の薫にとっては途轍もなく重く感じた。

 

「俺の実の母親ってのは両親と死に別れて、遊郭に売られそうになった時、運良く公爵家の下働きを探している女中頭と出会って公爵家に引き取られたそうだ」
田中の言葉に薫の身が竦む。姉の敏子を思い出さずにはいられなかった。
「公爵家で下働きをしていた母に目を付けた公爵家の跡取りが、自分の意に逆らえばここから追い出し遊郭へ送ってやると脅かし続け……
そんなバカ息子が母を犯し続けて結果、俺を身籠ったそうだ」
その言葉に、田中は誰からも望まれずこの世に生を受けたことを薫は悟った。
「公爵家の息子に盾突くことも許されず、周囲が母の妊娠に気付いた時はもう、どうしようもない程になっていた。そのバカ息子、某伯爵家から嫁を貰うことが決まっていたんで、母親は女中頭の実家の田舎に追いやられた……っていうか、存在そのものを隠された。母は愛も知らずに俺を身籠り産んだ。
俺が生まれ困った存在とは言え血の繋がりは否定できないし、かと言って表沙汰にもできないからと、子供の無かった田中伯爵夫妻の元へすぐに押し付けたと。
田中家も公爵家に逆らえないし、言われるがまま俺を実子として引き取った」

 

月は既に頭上高く上がり、ふたりの視界からは消えていた。春の夜の淡い闇が、今ならばと寡黙な田中の口を開かせる。

「10歳の時だった。俺は里に帰っていた女中頭のばあやに突然連れられて、行ったこともない田舎町に言った。地主でもある大きな農家。その離れに俺を産んだ母はいた。結核でそう長くは生きられないと告知を受けて、憐れんだ元の女中頭が田中の母に談判してくれて合わせてくれたんだ」

これまで田中の表情が変わることなど見たこともなかったが、薫はこの時、始めて田中の目に薄っすらと涙が覆う様を見た。

「もう、そう長く生きられないってほど重病人だってのに、俺を見るなり息も絶え絶えに起き上がって『一郎様、立派にご成長されまして、嬉しゅうございます』って土下座して挨拶するんだよ。俺、今考えるとあの時に人としての心が死んだのかも知れないと思う」

心が死んだという田中の瞳から涙が一滴、すっと流れ落ちる。

 

「母親と会う前に元女中頭から事情は全て聴いていたし、『お母さん』って呼べると思ってたんだ、滑稽なくらいに簡単にな。でも俺、言えなかった。正座したまま拳を握って我慢し続けた。何を我慢したのかは今もわからない……
それから一か月後に実母は亡くなった。まともな葬儀もしては貰えず。俺も参列することは許されなかった。そんな俺も、生みの母親から唯一、もらったものがあるんだ。
何だと思う?って分かる訳ないよな。貰ったのは……結核」

薫は大きく目を見開き田中の顔を見た。
当時、医療も薬剤も不足していた日本では、結核は今とは違い恐ろしい病とされていた。

「前にドイツにいたって言っただろう?公爵家の跡取り……って俺の実の父親なんだけど、結婚直前に病死したんだ。跡取りがいないままに。お家が取り潰しされちゃ大変だって、公爵家では急遽、俺を実子と認め家の存続を図ろうとした。爺さんにあたる公爵家当主の一存でな。でも、俺は結核に罹患していて、慌てた爺さんがあらゆる伝手を使って医学最前線国と言われたドイツに治療と療養を兼ねて送られたと」

田中の涙は既に乾いていた。ぞっとするほどに冷ややかな笑みがそこにはあった。

 

「今は……今結核はどうなんだ?治ったのか?治ったんだよな!?」
薫は思わず膝を付き田中の両肩を掴み揺さぶった。
「あぁ、最新の医療と薬で、こうして元気になれた。元気になったら敗戦で公爵家どころか華族制度自体が消え去ったよ。まぁ、そのお陰で医者になって結核を根絶するって夢も持てたしな」

田中の返事に薫は浮きかけた腰をストンと畳に落とした。

「いつか一緒に開業したいな。結核も外科も内科もなく、困った人たちを相手に医療ってものをお前と一緒に実践したい」
田中の言葉が心に深く深く染み入る。
「あぁ。田中と一緒だったら夢じゃない気がする」
薫は嬉しさで破顔した。


その夜、ふたりは一組の布団で背中合わせで寝た。
将来の開業のことで薫は機嫌よく、楽し気に話をしていたが、やがて田中の問いかけにも規則正しい寝息を返すのみとなった。

「俺、嘘言ってないからな……

だってお前、『結核は治ったのか』って訊いたんだからさ」

闇の中、田中は薫に呟いた。
薫の知らぬこの瞬間が、田中にとっては人の温もりを感じ幸せに思えた最高の時であったことを薫は生涯、知らぬままに過ごすこととなる。


2016,11,6

 

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もう、薫は「歩く厄日」「デスノート」状態です。

減量はやっと10キロ達成できました。でも、道はまだ遠いなぁ。糖尿もだけど人工関節の手前まで来ているから、もう減量も諦められないわな。チーンチーンチーンまだ、切れる余地のある靭帯がある限りは、油断できないわ。今日は朝からカカオ70%のアーモンドチョコを食べた。幸せを感じました。爆  笑爆  笑爆  笑