「橋本さぁ、お前は何科の医師を目指すんだ?」

休日の昼下がり。
温かな春の日差しを全身に受けながら、鴨川に沿って歩く薫と田中。
不意に質問をしてきたのは田中だった。
「大学で学ぶまで外科も内科もあんなに細かに分業されているなんて知らなかったんだ。どれも興味がある。でも、自分が医者を目指すこととなった理由を考えると……」
薫は言葉を途切らせ立ち止まった。薫の僅か後ろを歩く田中も同時に足を止める。
「オレ、無医村で働きたいって思ってるんだ。
そうなると外科も内科だけじゃなく……眼科やお産にだってかかわらないとならない。患者は病名を選んでなんてくれないからな」
明け方まで続いた雨が、いつもは穏やかな鴨川を濁らせ流れを荒くしている。その普通ではない川を薫は目を離さず見続けている。薫は嘘を言えない性分だ。自分と目を合わせない薫は、本心を言っていないと田中は思った。

「俺、獣医になろうと思う」
突然の田中の言葉に驚き、薫は背後にいた田中の方へ向いた。
「獣医ってお前、何言ってるんだよ!?」
大学でトップの成績を修め続けた田中の言葉に、薫は訝し気に田中の顔を見る。
「嘘だよ」
田中の一言に脱力する薫。
「でも、お前だって嘘、言ってるじゃないか」
田中の言葉に薫は押し黙る。

ふたりはしばらく黙ったまま川を見つけていたが、不意に一陣の風に背を押された
薫の口から、心の奥にわだかまっていた言葉がほろりとこぼれた。
「オレ、整形外科医になりたいんだ」

 


薫は大学内での下働きをしているが、整形外科の教授である成瀬秀雄に関わることが何よりの楽しみだった。
温厚な初老教授の成瀬はミッドウェー海戦で一人息子を亡くしており、薫の生い立ちを知ると手伝いと称して薫を呼び出しては、医師の心得や学習で必要な助言を与えてくれるようになった。ふわりとした銀髪に黒縁の眼鏡。その中の瞳はいつも優しい眼差しではあるが、特別に一度だけ手術に立ち会わせてもらえた時の成瀬の鋭い眼光は、薫の記憶から消えることはなかった。

 

当時、事故などで切断された身体の部位を接合させる医療は、まだ難しいもので
あった。成瀬は他の医師が諦める程の患者の切断部位を、まるで魔法を使うが如く
的確素早く接合させた。技術も機材もまだ整わない中、成瀬はそれをできない
口実にすることがない。


工場で切断された腕を抱え、何軒もの病院へ行ったが首を横に振られた若者が、成瀬の手術で接合される様を見た薫は、日向のことを思い出していた。

薫を生かすために自らの手首を切り落とした日向。
その場を見た訳ではないが、薫は今でもその情景を悪夢として見る。

「日向艦長、やめてくださいっ!!」

美しい南洋を鮮血に染め、笑みを浮かべながら自らの手首を切り落とす日向に、薫は狂わんばかりに叫ぶ。その泣き叫ぶ自分の声で何度も飛び起きた。いつか自分も成瀬の様な医師になって、日向のあの手を接合したい……あのままでは、あまりに日向艦長が可哀そうではないか。叶わぬ思いが積もり続けた。

 

整形外科医も苦しむ人の助けとなるのだろうが、今も無医村で命の危機に瀕しても
医師に診ては貰えない虐げられた声無き者たちのことを思うと、自分の軸足をどの
方向へ向けていいのかが、薫には分からなくなっていた。


「成瀬教授との出会いもまた、運命だったんじゃないのかな。
お前を生かしてくれた日向さんがいて、その日向さんが繋いでくれた命があったから成瀬教授と出会えた訳だし。日向さんにとってはお前が何になるってことなんか、問題じゃなかったと俺は思う。どんな口実であっても、お前が生きてくれることが彼にとっては大切なことだったんだよ。整形外科医になろうが、無医村で何でもこなす医師になろうが、医師以外の何かになるとしても、どちらに転んでも、お前が誰かを助けることになるのは確かだろ?
彼がただひとつ、望んでいたこと。それは、お前に生きて欲しかったんだよ。自分亡き後も幸せにってな。悩んで悩んで悩み続けろ。眠れないくらい悩んで決めれば、後悔なんてしないさ」

迷いの中、田中の言葉に薫は救われる思いがした。


「田中はどうするんだ?」
「俺は内科。呼吸器の専門」
「呼吸器?」
「あぁ。母親を結核で亡くしてるんだ……」

今まで田中は薫の良き相談相手ではあったが、自らのことを語ることは殆どと言って
いい程なかった。自分を助けてくれた時の会話の内容から、そこそこの身分を持ち何かしらの事情もあると察してはいたが、それを薫からあえて訊くことはなかった。

「俺の家、旧伯爵家なんだ」
「え?」

想像もしようのない告白を突然、田中は無表情で始めた。

 

「でも、俺は田中家の実子じゃない。
ある公爵家の息子が家に仕えていた女中に手を出して、生まれたのが俺なんだ。表に出せない俺の存在に困って家臣でもあった子供のない田中家に、極秘で実子扱いにして押し付けたって訳」

 

口角を上げて笑う田中。
けれどもその目は、今まで見たこともないぐらいに悲しみを湛えていた。

 

******

 

相変わらず内容は、斜め上を突っ走ってます。ポーンもうBL要素は皆無です。でも、最後は日向さんの元へ返してあげたいなって思ってます。整形外科医って、実は昨日のこの時間には想像もしていなかった展開でした。

でも、自分の子供の頃って、町はずれに小さな個人医院があって、そこの看板には『内科・外科・整形外科・眼科・肛門科』って書いてあったのを今も鮮明に覚えてます。老いたおじいさん先生が一人で何でもこなしていました。今考えると、戦争中に医師の資格を取って戦地に赴いて、何でもやらされていたのではないかと。肛門科の患者さんの後に、手を洗わず眼科診察って……ないよな、多分。滝汗