『海蛍』は特別な趣向を持った方に向けられた不定期連載小説です。

お付き合いの「いいね」は必要ありません。

次回、普通のブログupの時に、またお付き合いください。

 

風邪が治らず、体調は最悪です。

いつも以上に誤字脱字等あると思われます。

ゲシュタルト崩壊しながらも、頑張ってチェックしましたが、間違いがあったら脳内補正をして読み進めてください。

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翌日、薫は教室に田中の姿を探した。
意外にも田中は自分の後ろにいた。この場所が自分の定位置であり、入学以来常に薫の後ろにいたのだと言う。
「俺、存在が薄いんだよな」
田中は飄々とした口調でそう言うと、僅かに口角を上げる。
田中もまた、自分同様に生き方や世渡りがうまい人種ではないのだと薫は思った。
「これ……」
薫はポケットから昨日、田中に渡されたハンカチを差し出した。

 

*****

昨夜、汚水に塗れ帰宅した薫の姿を見たミツは、卒倒するほどに驚き目をむいた。
薫は大学構内を走る自転車にぶつかりそうになり、避けたはずみでドブに落ちたと咄嗟に嘘を吐いた。もう、如何なることであってもミツが悲しむ顔など見たくはなかったからだ。直ぐに洗濯するから今着ているものを脱げ、そして薫はこのまま風呂に行けと言われたが、薫は田中から借りたハンカチを取り出すと自分のことよりもまず、これを綺麗にしたいとミツに懇願した。
結局、ミツが薫の服を洗い、その横で薫が洗剤を分けてもらいハンカチを丁寧に洗った。
「シミ、取れるかなぁ……」
と、心配しながら灯りに透かして何度もハンカチを見る薫に、
「後は私がアイロンがけしておくから、橋本さんは銭湯に行きなさい」
と、きつい口調でミツから下宿を追い出された。

薫が銭湯から戻ると、並べられた夕食の横にあのハンカチが綺麗にアイロンがけされて畳まれていたのを目にした。
「ありがとうございます!」
薫はミツに礼を言うと、それを開いて中を見た。しかし、純白のハンカチの半分は未だ薄茶色のシミが残っていた。
「あれから、お隣さんから違う石鹸なんかも借りて頑張ってみたんだけど、これ以上はどうしようもなかったわ……」
ミツは落胆する薫に申し訳なさそうに言った。
「いえ、貸してくれた同級生は返さなくてもいいって言ってくれたんです。
何も悪くはないミツさんに謝られるとオレ……」
薫はミツに深く頭を下げた。
「橋本さんがこんなに真剣になるなんて、このハンカチの持ち主ってもしかしたら女性で……」
ミツの言葉に薫は、下げた頭を慌てて上げると大きく頭を振った。
「田中は男です、ホントです」
「男でも女でも、橋本さんと仲良くしてくれる人がいるってことが、私は嬉しいよ」
自分を思うミツの言葉を、薫は噛みしめる。


少し遅くなった夕食をとりながら薫は虐めのことを省き、田中に助けられたことをミツに話した。
「確かに戦後の混乱がまだ残るこのご時世に、医科大学へ進学できる子弟ってのは
限られているし、こんな舶来モノを普通に持っている同級生ってのはきっと身分あるお宅の……でも、有り難いねぇ。身分なんてのを鼻にもかけずに、橋本さんの人柄をちゃんと見てくれて仲良くなるなんて」
ミツの話に相槌を打ちながらも薫は、ハンカチのことが気にかかっていた。

翌朝、ミツはいつものように大学へ向かう薫に弁当を差し出したが、その弁当は
いつもより大きく思えた。
「ハンカチの人の口に合うなんて思えないけれど、助けられて嬉しかったって気持ちは態度で表しましょう。お弁当、二人分作ったからその方と一緒に、ねっ」
自分の大切な人を、ミツは何時でも自分と同じように大切に思い考えてくれる。
ミツの心遣いが嬉しかった。
「ありがとうございます。行ってきますっ!」
薫は二人分の弁当を手に駆け足で大学へと向かった。

*****

 

後ろの田中に向きを変え、薫はハンカチを出すと頭を下げながら田中に差し出した。
「高価な物だとは十分、わかっているんだ。あれから、下宿のおばあちゃんと色々と試してみたけれど、どうしてもシミが……」
田中はそのハンカチを手に取ると、まじまじと見つめる。
「前言撤回。このハンカチ、やっぱ返してもらうわ」
田中の言葉に薫は僅かに息をのむ。やはり高価なものであるし、冷静になってシミを見れば沸々と怒りも湧いてきたのだろう。
「申し訳なかった、本当に……
今は無理だけど、次の給金が出たら真っ先に弁償させてもらうから、それまで待ってはもらえないだろうか?」
薫は頭を深く下げる。
「ん?橋本さぁ、何か勘違いしてない?俺は返さなくてもいいって言ったんだよ。ってことは、弁償も望んでないわけ」
「でも……」
「いや、ハンカチ一枚で橋本や下宿のおばあちゃんまで巻き込んで、必死に綺麗にしようと頑張ってくれたことに今更ながら気が付いてな。家に戻れば使用人が掃除も洗濯も食事も何でもしてくれてるんで、俺はそこに自分のために何かをしてくれている『誰か』の存在があることを、不遜にも忘れていたんだ。
このハンカチのおかげで俺は、血の通った医者になれそうな気がした。このハンカチを俺の大切な宝にしたいと思った。だから、前言撤回で返してもらうことにしたよ」
田中はそう言うと、シミの落ちないハンカチを胸ポケットに大切にしまった。
貧しさ故に、今まで自分のことを馬鹿にする者たちは随分といたが、こんな田中のような人間もいるのだと薫は嬉しくてならない。
「今日の昼飯、用意はあるのか?実はハンカチのお詫びだって下宿のおばあちゃんが、田中の分の弁当も用意してくれたんだ」
まだ、心の片隅で田中から拒絶されるのではと、怯える自分が確かにいた。しかし、田中は薫をすぐに笑顔へと導いた。
「それって最高じゃないか。いただかせてもらうよ」


木陰でふたりはミツの弁当を食べた。
卵焼きにかぼちゃの煮つけと、ミツは相当奮発してくれたようだった。
薫にとってはごちそうであっても、果たして田中の口に合うのかと不安だったが、田中はどれも
「美味いなぁ、家庭の味はいいなぁ」
と、何度も頷きながら、残すことなく弁当を平らげた。
「これでハンカチの件はお終いだからな。
下宿のおばあちゃんにくれぐれもよろしく伝えてくれ」
田中もまた、ミツ同様に自分の大切な人を尊重してくれる。心の何処かで性格も外見も全く違うはずの日向やアランと過ごした頃の、あの穏やかな気持ちが蘇る。自分は何と恵まれているのだろうかと思う。

 

あれ以来、薫に危害を加えた連中は、薫を意識しながらも鳴りを潜めている。厳密にいえば、常に薫のそばに田中がいて手が出せない状態であった。田中は薫の隣に座り、穏やかな表情ながらも薫の気付かぬところで連中に一瞥をくれる。そこまで田中が入れ込んでいる薫に何かをしようとすることが、自分たちにとって何の利益も生み出さないと悟った連中は以降、薫を睨んだり無視することはあっても、直接危害を加えることは無くなっていた。
そんな田中の存在があり、薫は仕事や勉学に真剣に向かい合うことができた。何に怯えることなく、勉強できる環境は薫にとっては嬉しく有り難いものであった。

 

「お前の下宿に行って、一緒に勉強してもいいか?」
初めての定期試験。範囲が発表された日、田中が薫に声を掛けた。
「オレの下宿!?別に俺は構わないけれど、狭いぞ。とにかく狭い。
西日が入るから暑いし眩しいし、食事だって大層なものはないぞ?」
訝し気に返事をした薫に
「たまには気分を変えて勉強ってのも、悪くはないと思ってな」
と、田中は相変わらず飄々とした表情で答える。
「じゃ、明日はどう?下宿のおばあちゃんに伝えておくよ。
食事と布団、田中の分用意してもらえるように」
「よし、交渉成立だな」
田中は目を細めた。


翌日、大学での下働きを終えた薫と共に田中は下宿へとやって来た。
「橋本薫君と同級生の田中一郎です。このたびは勉強のために押しかけて来てしまい、申し訳ありません。これ、良ければ使ってください」
田中は大き目な鞄を開けると、中から白米、味噌、小豆、砂糖に酒と次々取り出し
ミツに差し出した。
「田中さん、こんな高価な物を一体……」
ミツは嬉しさよりも不安の方が大きいようだった。
「安心してください。決して怪しいものではありませんし、これを受け取ったからと後々、何か起きることも絶対にありませんから。あと、おばあさんにはこれはどうかと……」
田中は胸ポケットから、大切そうに何かを取り出した。
銀色の小さなコンパクトの様なケースが手の中にあり、それを開くと中には淡い色の
宝石の粒が数えきれないくらい入っていた。
「金平糖って言うんです。戦国時代、南蛮菓子としてポルトガルから日本に入って来たものです。疲れた時、身体を癒してくれますよ」
田中の広げた白いハンカチの上にピンク、青、黄、白の金平糖が星座を作る星のように散らばった。
戦中、帝国陸軍では乾パンと共に金平糖も戦闘食料として配ってはいたが、海軍の
薫はその恩恵にあずかることはなく、また遠巻きに見たことがあったが、それはこんなにも美しいと思えるものではなかった。
「さぁ、一粒」
田中はミツの手のひらにピンク、薫の手のひらには緑の金平糖を乗せた。
「何だか口に入れるのが恐れ多いね」
と、言いながら頬張ったミツの表情が瞬時に変わった。
「何て上品な甘さなんだろう!私は初めてだよ、こんなに美味しいものは!」
ミツの言葉に薫もそれを口に入れた。まさにミツの言った『上品な甘さ』が静かに口の中に広がって来る。思わず温泉で日向と食べた甘い卵焼きを思い出した。甘さは人を幸せな気持ちにさせる効き目があるらしい。


「何だか随分と気遣いさせてしまって申し訳なかったな」
部屋に入ると同時に西日に目を細めながら、薫は田中に部屋に入るよう促す。
「ここがお前の城か……」
田中は物珍しそうに、遠慮なく部屋を見回す。
「先に風呂に行こうか?」
「風呂って銭湯だよな?」
「あぁ。広くて気持ちいいぞ」
ふたりは銭湯で汗を流した。

 

ジョージに火かき棒で焼かれた背に、太平洋上で機銃で打ち抜かれた傷。海軍での壮絶なリンチがケロイドになり残ったものもある。薫の身体に目を背けたくなるような傷の数々を目の当たりにして、田中はなぜ薫が同級生の連中にやられっ放しだったのか本当の意味を理解できた気がした。同級生の暴行など、薫のこれまでの生き様から見れば、生温いものであったのだろう。地獄に落ち、その地獄から生還した薫があの程度で本気で怒るはずなどなかったのだ。


戻るとミツが食事の支度を終えていて、手招きをしている。
ミツの心遣いの品がちゃぶ台を埋めている。三人はあれこれ話をしながら、食事をした。薫もミツも田中も、気づけば先を競うかのように話をしていた。
「橋本さんの友達なんて言わず、私の友人としてこれからも来なされ。ここに並ぶもの、あなたから見れば、もてなしにもならないものかも知れないけれど、ここにはいつでもあんたの話を真剣に聞いて笑ったり悩んだりする人間がいるよ」

田中の箸を持つ手が止まる。
何も言い返さない田中を、ふたりが同時に見つめる。
田中の眼鏡の下から、すっと涙が流れ落ちた。
「田中?」
「私の居場所……」
田中は誰ともなく呟いた。
「居場所ってのはね、誰かに与えて貰うものじゃないんだよ。自分で作るものなんだよ。私の大切な橋本さんをあなたも大切にしてくれた。田中さんはもう、ここにいる資格があるのよ」
ミツは皺皺な顔で満面の笑みを浮かべた。

 

この夜からミツは薫のことを『橋本さん』と呼ぶことを止め、少し照れながらも
『薫さん』と呼ぶようになった。

 

大切な人を失い続けた薫の周りに、気の置けない者たちが集まり始める。薫を囲んで温かな人の輪が拡がっていく。

 

2016,10,14

 

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