朝5時に起きて予習復習を済ませ、他の生徒よりも早く大学へ行くと病院の下働きを始める。カルテや資料の整理、検査技師の助手、薬品を薬品庫から出し入れしたり、
教授の部屋の掃除まで薫は率先してどんな仕事もこなしていった。
そこには重労働でありながらも、教科書では学べない生きた医学と学問があった。
昼休みも声をかけられれば、躊躇わず『すぐ行きます!』と動く薫は、どこでも重宝された。


結局、薫は大学内では通名として『橋本』を名乗ることにした。
まだまだ、日向の足元にも及ばない自分。
いつか堂々と『日向』を名乗るを日迎えられるようにと日々、頑張ることを心に誓った。詳細は問われぬまま、大学側もそれを認め公式の書類には『日向』を記すが、それ以外は『橋本薫』であることを、認めてくれた。


この時代であっても、医学部に入ることのできる学力と財力を持つ子弟は世の中にはまだ少なく、薫のような海軍遺族枠で入った者と裕福な者は次第に別のグループとして自然に学内で区分けられ行動するようになっていた。
どんな時代になっても、身分や金で上下関係が生まれるのだと薫は思いながらも日々、働きながら必死に学んだ。


夕暮れ、教室の掃除をしていた時だった。
同期の裕福層数人の男子が雑談し騒ぎながら、室内に入って来た。
床の雑巾がけをしている薫の前に、その数人が立ちはだかる。
「お前、海軍の恥ずべき生き残りだそうだな」
薫の手にした雑巾の前に立った男の靴が、薫の雑巾を踏む。
「戦争は終わったけれども、人の優劣はいつの世もどこの国も変わりやしないんだ。他の学生はとっくに帰って明日の単元の予習をしている。
お前のように薄汚い雑巾を手に床を這いつくばるような者は、ここにいるべきではないんだ」
踏んだ靴先に力が入り、雑巾が床で歪む。
「足をどけてもらえませんか?
確かに私とあなた方は生まれも育ちも何もかもが違うのでしょう。ならば、私などに構わず、どうか自分の世界の仲間の元へ行かれては?」
薫はそっと雑巾を取り出すと、違う場所の拭き掃除を始める。
「お前さぁ、汚い格好で駅で荷の仕分けしてたよな?
そんな奴がどうして、ここにいるんだ?」
更にもう一人が薫の雑巾を踏みつけ、薫へと視線を落とす。
「生きるためです。
あの戦いで生き残った命は恥ずべきものではありません。
この国を新たに蘇らせる使命を頂いたのです」
「海軍遺族として奨学金を受け、朝から晩まで働いてまで医者になるってのが、そもそも烏滸がましいとは思わないか?医者になるのは俺たちの様な特権階級なんだよ。薄汚い格好で床を這いつくばるような奴と一緒に学んで医者になるなんてあり得ないって、俺たちは親切で言ってやってるんだよっ!」
雑巾を踏んでいたつま先が、薫の顎を直撃する。
薫は蹴られた弾みで教室の後ろまで跳ばされ、並べてあった机に強かに背を打ち付けた。
「目障りだ。自分の居るべき場所へ戻れ。
患者だって、そんな雑巾臭い手で身体に触れられたくはないだろうさ」

「私は医師になります。絶対に諦めたりはしません。
自分の身を挺してまでも私を生かしてくれた人たちの思いを、簡単に断ち切ったりはできないんです」
口角に滲む血を手の甲で拭いながら、薫は男たちを見上げ睨みつける。
薫の迫力ある眼に男たちは思わず後ずさりする。
「海軍で意味もなく殴られ蹴られ、気を失っても殴られて意識を取り戻した。
艦では何百もの屍を踏みしめながら、オレはひとり助かった。
お前らのそんな柔らかな革靴で蹴られたところで、オレは痛くも痒くもない」
薫はそう言うと立ち上がり、机を並べ始めた。
「この貧乏人がっ」
男たちが一斉に薫に飛びかかった。三人に羽交い絞めにされ、動きを封じられた薫の頭上からバケツの汚水が浴びせられる。
「いいか、ここはお前が存在すべき場所じゃないんだ。自覚しろ」
汚れまみれの雑巾を男たちが薫の口に突っ込んだ。
声が出なくなったことを確認した男たちは、更に薫に暴力を振るい続ける。
薫は目をつむり、日向や敏子、アランにミツの顔を思い浮かべながら、暴力の嵐が過ぎるのをひたすら耐え待った。海軍で鍛えた身体。こんなボンボン育ちが何人かで掛かってきても捻るくらいは造作もないだろう。しかし、抵抗してはこれからも連中に目を付けられる。今は連中の思うがままをさせて、やり過ごすことが得策だと薫は痛みの中で自分自身にそう言い聞かせていた。


と、その時だった。
「お前ら、いい加減にしたらどうだ?」
出入り口から聞こえた声に、男らの暴力が止まる。
「ぁ……」
その男の顔を見て、皆はすぐに押し黙った。
「このご時世にまだ身分がどうこう言ってるんだ。
だったら、今俺がいるこの場所から、お前ら出ていくんだろ?
坂上、お前の親父は戦後、土地で成り上がったんだよな。
三代前のお前の先祖はどこで何をしてたんだ?
桑田、お前の家は姉を旧華族に嫁がせてから、偉くなったんだよな?
で、お前の家はことあるごとに『旧華族と縁戚』って言ってるけど、それってお前の家が偉いのとどんな関係があるんだ?
富岡、お前の家は代々医者らしいが、お前だけは中々医者になれないそうだな。お前の父親が何やら大金らしきものを学長に渡したって噂あるけど、まさか金でここへ入った訳じゃないよな?」
見知らぬ男の声が痛快なくらいに、卑怯な連中の恥部を曝け出していく。
「いいか、もう一度訊ねる。
お前たちの言い分が正しいのなら、お前たちは俺と同じ場所にいてもいいのか?」
「くそっ……」
男たちは薫から離れると、無言のまま教室を後にした。


「ぐぇっ」
廊下の水飲み場で男は、薫の口に無理やり水を入れては喉の奥に指を突っ込み、汚水を吐かせる。七度吐いた後、薫は疲れ果て、ついにはその場に座り込んでしまった。
「もう、大丈夫だろう。
でも、お前も抵抗しろよ。お前なら、本気出せばあいつらを簡単に殺すこともできたんだろう……」
薫は顔を上げて、言葉だけで自分を助けた男の顔をまじまじと見る。
どこかで見た顔だった。
「なんだ、覚えてくれてないのかよ。同期入学して、同じクラスじゃないか」
背の高くない、目立たぬ風貌の男だった。
ふと、眼鏡の蔓に触れ、眼鏡の位置を直す仕草に記憶が蘇る。
確か入学式の時、薫の前列に座っていた男だ。
「俺、田中一郎」
そう言うと、田中はポケットから綺麗に畳まれたハンカチを取り出し薫に手渡す。
「いや……いいんだ」
汚水に塗れた身体を、そのハンカチで拭くことに薫には抵抗があった。
目立ちはしないが、この男の身に着けている物は皆、舶来品だ。
あの粗暴な連中をやり込めた言葉を思い出せば、この田中と名乗る男もまた、相当の身分のある者の子弟なのだろう。例えハンカチ一枚であっても、今の薫には礼をすることは容易ではない。しかし、田中は何の躊躇いもなく、薫の頭をゴシゴシと舶来品のハンカチで拭き始めた。
「や、だから……」
「ばーか。こんな布切れ一枚と人間、どっちが大切なのかって医師を目指すお前がわからないのか!?」
「ありがとう……」
その言葉に偽りがないと感じ取った薫は、改めて礼を言うと、そのハンカチで身体を拭き始めた。
「それ、返さなくてもいいから。
あとな……お前、あんな連中に絶対に負けるなよ。
断言するよ。十年後、あいつらは医師として、人間として誰一人、救うことができてはいない」
薫が声を掛けようとしたが、田中は『じゃまた明日』と、言うと陽の傾きかけた緋色の廊下を癖のある歩き方で去っていった。
これが生涯、ただひとりのかけがえのない友となる田中一郎との出会いだった。


2016,9,30

 

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ちべた店長、自分の誕生日だってのに、必死に「ぼくのまほうつかい」の更新しているのを見て、消灯時間を気にしながら、何とかここまで書き上げました。

綺麗な夜景とも、今夜でお別れです。(たぶん)

ついに、薫の親友のあの男の登場です。しかし、薫が虐められてるシーンを創作していると、作業のペースが速くなります。

 

そうそう。昨日、検査の数字の記入用紙におそ松さんの絵を描いたんだけど(いくつか前にupしてるわ)、巡回に来た看護師さんが

「あ、私これ知ってますよ。

 カエルのTシャツ来てる男の子ですよね」

節子、それはおそ松じゃない、ヒロシや……

 

ガーペッペのおばさんは昼によその病棟へ引っ越ししちゃいました。

隣のベッドのおばさんから「たまさんのこと、何やら告げ口してたよ」って聞いた。

睨みつけたのが相当…だったみたい。でも、私も先手打ってた。

「緑内障で視野が欠けていて、よく見えなくて凝視すると、相手は睨まれていると思うらしくて……しくしくしく……」

看護師に暴言に近い文句を言っていて、トラブル回避でガーペッペを逃がしたみたいだ。ガーペッペは立場の弱い反論ができない者にはあくまで強いらしい。(苦笑)

ガーペッペは今日も若い男性医師には、2オクターブ高い声で「つらいんですぅ」って言ってた。聞いている方が辛いわ、ダホッ!