書いているうちに、取り留めなくだらだらとなってしまいました。

申し訳ありませんが、今回もまた、読まずにパスしてくれても無問題。

義理の「いいね」は必要ありません。次回、また読んでください。

 

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明日のセンテンス・スプリングの電話取材に備えてのまとめ原稿を用意し終えた。

 

センテンス・スプリングさんがある特集記事を計画していて、読者に体験談的ものを募集していて、私は他の人が体験してはいないであろうことを体験していて、それを簡単に伝えたら取材の運びとなった。体験的には確かにぶっ飛んでいるとは思う。あまりにアホ過ぎて。でも、私の体験談が採用されるかはわからない。他にもっと有意義な話を寄せる方もいると思うし。センテンス・スプリングさんが記事を完成させて販売したら、ここでお伝えするかも知れません。もったいぶる訳ではなく、センテンス・スプリングさんの記事の完成を待ちたいです。

 

で。

実は今朝upしたブログについて、ある方(その方の情報は伏せます)から、メールを頂きました。別に反論という訳ではなく、単にもう少し私側の話を知りたいと。

メールで来たからメールで返すのが当たり前だと思ったけれど、他にも同じ様な疑問を持っている人がいたらと思って、その方の同意を頂きここへあえて公開返信とします。内容は障害者施設の殺人事件について。今朝と重複する部分もあると思いますが、おさらいということでご勘弁を。

 

まず……

私が言う娘に対する「障害」というのは、娘が生まれついて持っている、この世での生きにくさ。他人と折り合いをつけられ難い部分っていうのかな。

「害」というのは、娘が持っている特性故に、それが娘に「害」として跳ね返り、娘が「害を被っている」との考えから、私は「障害」と堂々と言っている。あくまで害を被っているのは、まずは娘であるというスタンス。

 

しかし私が、娘の話をしていて「障害」というと、かなりの方が、私の言葉を遮り言う。

「娘さんのそれは障害ではありません。個性なんです」と。

実はこの時点で、相手と私の考えは見事にすれ違っていたりする。

私は娘を「世間の中にある害」とは思ってはいない。「害」は娘が被っているものなんだから。でも、相手は更に言葉を重ねる。

「自閉症は個性です。害なんかじゃないですから。

 素晴らしいんです。有名人の○○も✖✖も自閉症って話ですからね」

 

この時点で相手は「娘の存在が世間に対して害していると、この母親は思ってる。

いけないな、そんな考えは。みんな平等なんだから」と、私を説得し始める。説得とは「あなたの娘さんは、世間に対して害なんて及ぼしてはいませんから。

 百歩譲っても、それは社会が容認して受け入れなければならないことなので、とにかく娘さんは悪くはない。だから障害ではなく障碍って字を使った方が……」

正直、こうなると話なんぞしたくなくなる。

 

 

もしもあなたが、いや、あなたの幼いお子さんが、大切な人が隣にいた体格のいい見知らぬ者から突然、体当たりされ、突き飛ばされ倒され、馬乗りになられて満タンのペットボトルでタコ殴りされたらどう思うだろうか?

これは娘が小学校低学年時、私と娘が体験したことだ。

 

当時、ある場所で、完全に音を消した携帯ゲーム機で遊びながら順番待ちをしていた娘が、隣に座っていた大人ほどの体格のある男の子から、突然それをされた。私は咄嗟に娘に覆いかぶさるようにして娘を防御し、その男の子の母親が慌ててその子の身体を引っ張りひきはなそうとする。しかし、男の子の力は強く、母親の力だけではどうにもならなかった。

異変に気付いた周囲の人たちが慌てて寄ってきて男の子を引き離してくれた。男の子は延々と声にならない声をあげ、娘をまだ威嚇していた。

すぐにわかった。その男の子もまた、発達障害を抱えていたのだ。

娘に大怪我はなかったが、しばらくは何に対しても怯えていた。

理由は、娘が遊んでいたゲームでマリオを上手に操作できずにゲームに負け続けていたのを男の子が見ていて激高、不甲斐ない娘の姿に我慢できず殴りかかったのだと、その母親から説明と同時に謝罪を受けた。

殴られた娘は何の罪もなく、可哀想に思った。私自身、モヤモヤは残ったが、頭を下げ続け謝るばかりの母親の姿を他人ごととも思えず感情移入さえしてしまった。

 

このできごと、「害」は男の子でも母親でもないと私は思った。それをするしかなかった、そんな個性を持って生まれてしまった彼もまた「害」を被っているのだ。

けれども、相手が障害を持っているからと、一方的に暴力を振るわれ、もしも娘が大怪我でもしていたら、私は如何なる事情があろうとも彼らを許さなかったと思う。彼の性根や親の躾の問題ではないと頭ではわかっていても、理不尽な暴力を受ければ、相手に対して憎しみも湧く。私は笑って許せないだろう。(取り返しのつかない大怪我ね)

 

親は疲弊している。絶えず、わが子が何かをしでかすのではないかと。

現実に私たちが体験したようなことを起こし、大怪我でもさせればと思うと気が休まることはないとも思う。

そんな親に「そんなわが子の行動は個性なんです。障害なんて言ってはいけません。さぁ、前向きになって、ほら!」って言うことは、果たしてその親にとって救いのある言葉なのだろうかと、ワンクッション置いて考えられないだろうか?

ポジティブ思考はいいと思う。けれども、それを押し売りする者は、日中は我が子が他人に何かをしてはしまわないか、お願いだから夜は、夜だけは、夜くらいは寝て欲しいって生活を強いられている親の苦しみを僅かでも味わったことがあるのだろうか。「それは個性ですから。天使ですから」って聞こえのいいことだけを言うだけ言って、アンタは夜はグーグー寝てるんだろう思う。

 

 

 

「障害」を「障碍」に替えても、天使と呼んでも、個性と言い張っても、眠れない、自分の時間さえ満足に持てない親には何の救いもない。

 

今回の事件で障害者の人権について有識者ってのが、声高に叫んでいるのを何度も耳にした。

 

殺戮を犯した犯人はクソだ。論じるまでもない。障害者がいて目障りだの許せないだの言っても、その言葉に正当性は皆無だ。自分にとって目障りな人種を殺す暴挙を正当化するくらいなら、お前が死ねと言いたいくらいだ。

と同時に、障害を持って生まれた(知的や情緒)者の人権や、その者たちとの社会での共生。権利を叫ぶことも大切だけれど、取りあえず娘と共に当事者でもある私は常に、この手の話には障害者やその家族、有識者と呼ばれ人道的な意見を発信する者、そして、それらの人と関わることなく生きてきた者、更にはそれらの障害を持った者に不本意なことをされてしまいトラウマになってしまった者と、まるでミルフィーユのように幾層にも違う主張が重なり合うも、これらが一体となることは難しいと思えてならない。

 

建前はもういい。本質に切りこんで考え話し合う時が来たのではないだろうか。

現実に不本意ながらも何かをされて怪我をしてしまった時、加害者側に障害があるからと言っても許せないのなら、どうすれば双方が納得できるのかなど。

互いの負の部分に目を閉じたまま理解せよなんて、どう考えてもありえはしないのだ。共に歩むからと言って、誰かが我慢を強いられてばかりでは歩めるはずもない。

有識者と呼ばれる者はテレビなどでこの点には絶対に触れない。障害を持った者が犯した事件事故を、どこまで許せるのかを争点にするべきだとも思う。刑法第39条は娘のような者を護ってくれるのだろうが、それがある故に娘は社会で受け入れられにくいのかも知れない。障害者を排除しようとする者の大方の不満は、この39条なのだ。

 

 

娘が睡眠障害を併発して、専門医から睡眠薬など投薬されても、効くことはなくむしろ覚醒してしまい、私たち夫婦は睡眠不足に陥った。亭主はうつ病になり休職に至り、時期をずらして私自身、うつ病になり子育てを出来る状況ではないと、娘が通う保育園から判断され、しばらく娘を施設で保護されることにもなった。

おかげで私たち家族はどうにか乗り越えられて、今に至る。

あの当時、保育園では娘の睡眠障害を知って、お昼寝の時間に娘を職員室に呼んで遊んでくれて寝かせない策を講じてくれた。それは、こちらから頼んだのではなく、ここまで追いこまれた私たちを見かねての先生たちの厚意だった。

私たち家族が何とかなったことを思うと、今も苦しんでいる親御さんにも何かしらの救いがあればと祈らずにはいられない。

 

結論

何か、何かがあるはずなんだ。互いにわかりあえる術が。

でも、誰かが泣いて我慢するような、誰かの犠牲の上に成り立つ答だけは、絶対に導いてはいけない。

 

あと……以前、障害を持ったわが子を真顔で「天使」って呼ぶ人、本当にいたんだな。私たちは「人間」を育てているのであって、架空の「天使」なんぞ育ててはいない。障害を持った者を「天使」なんて言葉を使い、考えるべき大切な部分をぼかす輩がいるから、世間から受け入れられないんだとも思う。「人間」と「天使」の共存の答えなんて出るはずはない。

 

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書き殴りです。よけいにカオスになってしまった気がする。