最近、亭主は忙しくて帰宅が深夜になる方が多くなった。

働いている亭主に済まないって気持ちがあって、大抵は起きて待っている。寝ていても亭主が帰宅する少し前に目覚める。深夜2時、3時でも夢を見ていても目が覚める。昨夜は11時過ぎで早い帰宅だった。出たボーナスも娘の学費にほとんどが流れて行き、深夜、世帯主の前に差し出された晩飯は禅宗の修行僧の朝食と見まちがう程の質素なものだった。飯に文句を言えば、その修行すら強制終了となり空腹のまま寝なければならないので、亭主は文句を言わずにそれらを食する。

 

風邪が酷くて早めに寝た娘が、亭主の好きな「マツコの知らない世界」の録画をしてあった。口に飯粒を押し込む亭主に「見るか?」と問うと亭主はコクリと頷いた。

今夜は亭主の好きな心霊特集だった。

この男、極端な怖がりのくせにこの手の番組が大好きだ。恐怖から両手で目を半分覆い、半分が三分の一、四分の一、五分の一と視野を狭めても見ようとする。初めは面白がって突っ込んでいた私も結婚15年を越えた頃から、突っ込むのもやめた。

私はキッチンであれこれしていたが、亭主は番組を見ながら

「これさ、作り物なんだよね、ねっ!怖くないもん……ね」

と、明らかに私ではなく自らに言い聞かせているように呟く。

飯も終わり、自分の茶碗を手にキッチンへ行こうと立ち上がったが、制作がマツコの画像を使って心霊動画を作り、最後に画面いっぱいに血色の悪い、物言いたげなマツコの顔が写しだされたと同時に、背後から私が亭主の肩を触れたら亭主はパニックを起こした。

前には大きな画面に浮かびあがる憂いを秘めたマツコが、背後からも物言いたげなマツコのような妻が立っていたのだから。亭主にとってはまさに「前門の虎後門の狼」ならぬ「前門のマツコ後門もマツコ」状態だ。せっかく食した粗食も一気にカロリー消費してしまったみたいだった。

「驚いたぁ」と、涙目の亭主。その後、亭主が風呂に入ったのを確認して、ガラス扉に顔を押し付けたりして、「夏の恐怖まつり・三倍増し」の刑を執行した。さらに別に寝ていることもあって、真っ暗くなった亭主の部屋へ、とどめのキャンドルサービスをしたら寿命を削るくらい驚いていた。明日はエレクトリックパレードをしてやろうかと思う。

でも、心霊番組が怖いなんて涙目になっている亭主を見て「この人は幸せな人なんだろうな」と思った。もうそろそろ「生きている人間の方が怖い」って自覚できないとまずいんじゃないのかって。

 

中学生の頃、自宅で居酒屋をやって母子家庭の生計を立てていた毒母。時は今のような暑い季節だった。

客として暖簾をくぐられれば、こちらは客として迎えなければならない訳だが、その日来た中年の客は入店直後から、独特な雰囲気を醸し出していた。

私は未成年でもちろん店には出ないが、毒母との会話のかみ合わなさから不思議に思った私はプライベートな空間と店を繋ぐ扉から、思わず様子を伺った。

男の声が次第に大きく荒々しくなって来る。かなり酔って来店したのかとも思ったが、酔っぱらいではないらしい。会話も次第に会話ではなく、勝手に喋りだしいつの間にか、自分は多くの敵に追われてここに来たのだと言いだした。

毒母もやばい空気を感じ取って、遠回しに店を閉めると言いだした。

 

日頃から様子を伺って、やばくなったら警察に電話をしたり、店に飛び出て毒母に加勢したりする役目のあった私は、危ない男を見ながら自分はどうしたらいいのかを考え始めていた。が、状況はすでにそんな甘いものじゃなくなっていた。男がカウンターに出していたビール瓶を逆手に持ってカウンターを乗り越え居間に入ろうとして来たのだ。それも意味不明な言葉を叫びながら。

 

私は咄嗟に110番通報をした。日頃、練習をしていたのでこちらの名前と住所、そして何が起きているのかを中学生にしては簡潔にしっかりと説明できたと思った。

しかし、世の中、そんなに甘くはなかった。

「あぁ、悪いけど、今ね。パトカーは全て出払っていて行けないんだわ」

 

この時のショックは忘れないと思う。本当に人間って絶望の縁に立つと目の前が真っ暗になると私はこの時に知ったと思う。

「いや、今もう、男が瓶を持って部屋に入ろうとして…わ、や、入ってきた!早くっ!!」

毒母が瓶を持った男とダンゴ状態になって扉を壊しながら今に入ってきた。

受話器を持ちながら私は叫んだ。

「今、男が部屋の中に入って来てますっ!!!」

しかし、田舎の110番はマリーアントワネットのティータイムのように慌てず優雅だった。

「あのね、パトカーが二台しかなくて、どれも全部、出払ってるの。

でね、えー、あと30分ぐらいで行けますから、それまで頑張ってください」

作り話でも冗談なんかでもない。電話の向こうの警察官は本当にそう言ったのだ。

そうだ、太陽にほえろ!のテキサスもゴリさんも、西部警察の大門団長もみんなみんな架空の警察官なんだ。田舎で二台のパトカーに縋って生きる田舎者には大門団長のショットガンだって射程距離外なのだ。

 

覚悟を決めた。私は電話を投げ捨て、石炭ストーブで使う金属棒(デレッキ棒)を手にすると、恐怖で腰を抜かし掛けていた毒母を自分の後ろにして壁になった。

怖いなんて言ってる状況ではない、戦わなければ死ぬ。

男の顔を初めて正面から見た。最近、精神異常者が殺人の直後テレビカメラに映っている姿を見たが、それと同じだった。瞳孔が普通じゃなく、不自然なくらい汗が滴って、とにかく私と毒母を敵にしか捉えることができない。小さな四足テーブルを蹴ってひっくり返され、宿題のノートやプリントは男の泥の付いた靴の下になった。

 

住んでいたのはボロボロの借家で、扉もガラス扉で手で押せば外れるようなものだった。どこかに閉じ込めることも無理。ただ、出口は自宅用と店と二つあるから、ビビッてカウンターを超えられない毒母に、自宅用の扉まで死ぬ気で走って外へ出て、とにかく逃げるか隠れるかしろと言い、私は棒で応戦しながら店の出入り口から逃げると言った。金属棒が頭にヒットしたら確実に死ぬと思った。でも、正直、あの時は罪悪感など微塵もなく、こいつを殺さないと自分も死ぬんだと殺すことが恐ろしい勢いで自分の中で正当化されていくのがわかった。アル中の毒母との生活も限界だったので、この男を殺すことによって、自分が毒母から逃れられるのなら、それはそれで幸せだとも思った。

 

毒母を突き飛ばすようにして奥に行かせ、私は鉄の棒を持ってそれを振り回した。

ビール瓶を持つ男の手を私は棒で叩いた。気持ちいいくらいに狙った手の甲にあたり、男は瓶を落とした。私は隙を見て店に出てカウンターを飛び越えた。男は落とした瓶を再び手にして私を追いかけてきた。私はカウンター越しに店の椅子やら備品を手当たり次第に投げつけた。これでダメなら、殺そうと思った。

男の額や肩に椅子や備品が当たったが、男はそれでもカウンターを超えてきた。

目は更に尋常じゃなくなっている。口角から泡を出しながら、唸り声を出しながら来る。と、その時。

店の扉が勢いよく開くと同時に、黒の塊が視界に飛び込んで来た。その塊は店に入ると同時に男に覆いかぶさる。訳のわからない声を出しながら男は暴れたが、黒い塊は瞬時に男を投げ飛ばした。男の声は低く小さな唸りの変わった。倒れた男の周りには壊れた椅子や食器が散乱していた。黒い塊はこの町外れにある交番のお巡りさんだった。

通報を受けてパトカーを出せない署から、この町の外れにある交番に連絡が行き、そこからこのお巡りさんが駆け付けてくれたのだ。

日頃、巡回しながら世間話をしていた人だったが、この状況下で彼は素早く柔道の技で男を倒しねじ伏せた。

「大丈夫か?怪我はない?」

私は人を殺さずに済んだことに安堵して、その場に座りこんでしまった。

後日、この男が覚醒剤中毒であり、何があってもおかしくなかったと聞かされた時、戦った時以上に恐怖を感じた。

 

田舎には田舎の良さがあるのだろうけれど、緊急時にパトカーが出払っていてあと30分経たないと配車できないって言われた時の絶望感は半端なかった。

あんなことを体験してしまうと、ビデオや写真に幽霊が映ったくらい、どうってこともなくなった。んな、得体の知れないものが映っているのと、パトカーが30分来ないのとでは、断然、後者の方が怖いに決まっているのだ。