お花見で食べたいもの【投稿でドットマネーがもらえる!】 ブログネタ:お花見で食べたいもの【投稿でドットマネーがもらえる!】

自分の中ではっきりと「桜がきれいだ」と愛でた記憶があるのは、神奈川県での小学校の入学式当日、花びらが舞う校庭沿いの桜だった。親の都合で幼稚園を退園して共稼ぎの親を社宅でひとり待つ自分。この土地へ来て、初めての集団生活に夢も希望もいっぱいで、流れる桜の花びらは引っ込み思案の自分を後押ししてくれる存在に思えていた。桜が散ってその後に大量の毛虫が湧き始めた頃、私はイジメの的にされて以降、この場での桜の記憶は絶えた。

次に桜の記憶が残るのは高校の入学式だったと思う。生まれて初めて学校生活を満喫することが出来た場所だった。校庭の桜を見ながら一緒にお弁当を食べる友人がたくさんできた。自宅に戻れば酒に理性を犯された毒母が生活苦などで私を殺そうと迫ってきて辛かったが、学校は自分に取ってやっと得られた安らぎの場だった。

次に桜の記憶が蘇るのは、23歳くらいだったか卵巣がんで片方全摘出、もう片方を三分の一残す手術に向う途中の道だった。長く雪に閉ざされていた大地は饒舌になったかのように、私の五感に春が来たことをあらゆる手段で伝えてくる。暖かい風、柔らかな日差し、黒や紺だった人々の服がパステルに変わり、人々の弾む声に鳥のさえずりが輪唱するかのように降ってくる。ひとりでカバンに最低限の着替えを詰めて、当時、徒歩で1時間くらいかけて歩いて入院先へと向かっていた。金は余るほどなんてなかったが、バスやタクシーに乗れない程困っている訳でもなかったが、私は歩きたかった。サイクリングロードと呼ばれる道の両側にモーセの十戒のあのシーンのように道が開かれ、両脇には開かれた海のかわりに満開の桜が行き先を示してくれていた。切らなきゃ確実に死ぬが、死ぬことに別段、困ることも執着もなかった。取りあえず生きなきゃならないから、手術に向かってはいた。

皆が満開の桜を見上げる。幸せそうな連中と同じものを見てご満悦になる自分が許せない気がして、私はなるべく見ないようにしていたが桜は花びらのシャワーで私の視線を強引に上に向けた。何でもいいから、誰か好きな人が出来て、その人とこんな花の下で何かが食べたくなった。来年、いや数年後、私は桜の下で誰かと何かを食べて笑っているのか、遺影になって菊の花を通年飾られているのか……涙がぶわっとあふれ出てきた。その時、自分が人生の岐路に立たされていることをやっと理解できたのだと思う。宣言する人がいなかったんで、私は頭上の桜に「来年、必ずまた見に来るから」と勝手に宣言すると、カバンを握りなおして歩き始めた。

数年後、同じ場所で私は桜を見ていた。横には大好きなV6の岡田くんと身長・国籍・性別だけが同じ亭主がいた。気の利いた言葉はなかったが、一緒に桜を見てくれた。それから更に15年後、もうすぐ4歳になる娘を桜に近づけるように抱き三人でこの桜を見上げた。「ほら、桜、きれいだね」私は娘に囁いた。しかし、娘は桜よりも私の顔を凝視しながら指まで指す。「…み、…み」「ん?なんだ??」「しみ、しみっ」娘は私の顔にある大きめのシミの方に興味を持ち、桜そっちのけで、私のシミで詫び寂びを堪能していた。途中にあったコンビニで衝動買いしたちくわを無言で三人で食べた。桜の下で何かを食べることが楽しくて幸せなことだと、私は40歳目前でやっと知った。

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