苦手な科目教えて ブログネタ:苦手な科目教えて

未だに算数(数学の域には達しない)は難しい。小学校は休んでばかりで、たまに学校へ行くと教科書が何十ページも進んでいて始まったばかりだった分数が次に学校へ行くと少数になっていたとかでどの単元もまともに終えた記憶もない。毎日、学校へ行っていても着いていけない子がいるのに、学校へ行かなきゃ理解できるはずもない。けれども、「苦手だった教科」として記憶を辿るなら「国語」の方が嫌だった。

小学校2年の新任女性教諭には、蛇蝎の如く嫌われていた。デブで不細工で勉強もできない。親は子供に無関心で(当時)給食時間には偏食な自分は野菜を受けつけず、いつも給食後の掃除の中でも5時間目が終わっても自分の机の上には野菜の入った食器が置かれたままだった。親は共稼ぎで夕食は菓子パン3つ買って置かれて、テレビを見ながらひとりで食べる生活。野菜なんて食べる意味も意義もわからない。喉の奥に野菜を突っ込まれて既に胃の中に納まっていたはずの胃液で酸っぱくなったパンが逆流して戻しても、汚いと罵倒されながら更に喉の奥に押し込まれた。いじめる同級生の他に担任教師との戦いもまた確実に、私の健康や健全な精神を蝕んでいたと思う。

授業参観の5時間目。教科は国語。ある単元の音読を行うと宣言されていた。私はどうしてもすらすらと文章を読むことが出来なかった。何十回音読してもつっかえて止まってしまう。すらすら読めないのは練習をしないバカだと担任に言われていたので、泣きながら練習してもすらすら読むことはできなかった。そしてそのまま授業参観となった。たった一行なのだが、私はついに、いや、当然の如く最後まですらすらと読めなくて5時間目終わりまで立ったままだった。時間を作って来た毒母は激怒して「私の顔に泥を塗りやがって。二度と行かないからね」と言われた。クラスメートや背後に並ぶ親たち、そして担任の冷笑は今も忘れない。しかし、高校入試で私は国語で圧倒的な点数に助けられて総合点をかさ上げして、何とか高校生になれた。そして高校では評定5で逃げきった。

親が放任共稼ぎで勉強手段は皆無だったが、親の勤務先では日々、読売・毎日・朝日など主要新聞があって読み放題だった。翌日には各紙、手元において読み放題で私は難しい漢字や言葉の意味も分からず新聞を読み漁り続けた。殺人事件や家庭欄での人生相談、地方の小さな出来事など私はとにかく新聞を読み続けた。同級生は学校で夢や希望を思い描き勉強していた時、私は新聞で不倫で殺人とか嫁姑問題で拗れるリアル人間模様を読みふけっていた訳だ。後に40代で腐った小説を書いたりこうしてブログ(出来不出来は別の話)を書けるのも、あの時、活字を追い続け自分の小さな世界から心だけは抜け出して、時に宇宙までにも行っていたからなのかも知れない。想像は無限なのだ。(言い方がバカボンのパパになっているのだ)

そして、今は私は音読は全く問題がなくなった。きっかけは笑えるのだが、アニメファンになったからだった。アニメ好きから声優さんに興味を持って(あの当時だから富山敬さんや神谷明さん、井上和彦さんなどあの時代の方たちすべて)声優のマネ事をした。文章はセリフになって登場人物になった私はセリフをすらすらと話ことが出来た。高校に入った頃にはもう、私が音読で躓いたなんて誰も信じることはなかった。高校では演劇部にも入った。ジャン・アヌイの「アンチゴーヌ」の乳母役。あのおしゃべりで理屈っぽいフランス人戯曲のセリフ暗記が今の私を構築したと思っている。(今、ネットにあったアンチゴーヌのセリフを久々に見たけれど、自分が演じたものとは違うな。訳は芥川比呂志さんだったのか?どっちにしても面倒なセリフ回しだったのは確か)もしも舞台に立てるなら、クレオンは堤さんで衛兵1が成河さん。(成河さんはSPでポールを演じた俳優さん)私は乳母役を極めたい。今なら乳母のあのイラついた気持ちがとても理解できるから。(苦笑)

自分が不本意ながらも躓いたからそれを恨んで人生ドロップアウトする口実もありなのかも知れない。けれども、学校も教師も勉強も苦手ってことは、それらの負の部分を知っているから立ち向かって行ける手段を講じることも出来た。「負」は負だと思い続けている限り当然ながら「負」でしかない。自分が勉強できないから、娘の参考書選びは寧ろ助かったくらいだ。私が読んでわかるものなら、娘にもわかるという指針になったから。

で、この年になってやっとわかったのが、苦手な教科は家庭科だったということ。料理は未だ全て「シェフの気まぐれ…」と枕詞がついている。取りあえず、これがつけば大抵の料理はどうにかなる。焦がしたコロッケも「シェフの気まぐれ 森の奥深い時を忘れるほどに焦がすような夕日を浴びた子ぎつね色のちょいニガコロッケ」とか。