雪にまつわる思い出教えて ブログネタ:雪にまつわる思い出教えて

無駄に長文。思いつくままに書いたのでお付き合いのポチは辞退します。どうか気にせずすっとばし推奨。

ずっとずっと昔の話

入院先でかわいい婚約者のいるA(同じ年齢)と知り合った。同じフロアーで気があって二人で姉弟みたいにいつも騒いで笑っていた。婚約者の彼女も紹介してもらって、会った時には挨拶をして邪魔にならないようにしていた。互いに退院後も電話で話したり、ハンバーガー食べながら話したりの仲だった。彼女さんに誤解されると困ると思ったが、彼女には絶対的な自信があって私がAと会っても何も騒ぐこともなく友人の一人として見ていてくれた。ある日、仕事の関係でAは東京で働くこととなり引っ越すことになった。決まりかけていた結婚式はAの転居により延期になった。彼女はある老舗の一人娘で、実家の後を継ぐことになっていてAを追うことができない。Aはまずは仕事を頑張って彼女の両親に男としての誠意を見せたいと、身の回りのものを持って東京へ旅立った。その後、Aとは電話や手紙のやり取りでつき合っていたが、彼女との結婚に彼女の両親が難色を示し始めたと落ち込んでいく様子が手に取るようにわかった。私はAに会いに東京へ向かった。

「相変わらず行動力あるよね」
Aは羽田で再会してすぐにそう言って笑った。どこか安いホテルでもと考えていたが、Aは自分が住んでいる四畳半一間のアパートに空き部屋があって、大家さんに掛け合ったら日割り格安で貸してやると言ったとAのアパートへ向かった。その時、私は初めて東京の蒲田駅に降り立った。田舎から来た自分にはやけに人が多い所だと思った。布団はAの隣に住んでいる私たちより6歳年上のBさんが「使ってないからどうぞ」と貸してくれた。翌日から私はA・B両名の夕食を作ることとなった。それまで顔見知り程度だったAとBは私を介して仲良くなって、三人でご飯を食べながらあれこれ話をして盛り上がった。(念のために。私は誰とも妙な関係にはなっていなかった)

ある日、Aが取引先で知り合った(Aは貿易会社勤務で通訳も兼ねていた)中国人Cと会わないかと言ってきた。仕事で現在、日本に滞在していてたまさんならすぐに仲良くなって騒げるんじゃないかとと言われて、滞在させてもらっている恩義もあったので気軽に返事をした。後日、Aの先輩にあたるDさんも同伴で中華街で食事をしたが、当時Cは中国でもかなりの金持ちの部類に属していて、田舎者の私でも「金あるんだなぁ」ってぐらいは理解できた。「明日も会っていただけませんか?」Aを介してCに言われ「外でお茶を飲むくらいなら」と返事をした。翌日、待ち合わせした蒲田駅でCは何と白・黄・紫の大輪菊の花束に赤いリボンを付けて私を待っていた。中国では普通の光景らしいが、大輪菊の花束に赤いリボンは蒲田駅でかなりの人目を引いた。この花を無碍にも出来ず私は部屋に活けて来ると言うと、Cも着いてくると言う。遺影を飾れる程の菊の花を抱えて私は滞在先のアパートへ向かった。ところがここで思いもよらぬことが起きた。部屋に入った私をCが襲ってきたのだ。もう、部屋で大声を出して昔のプロレスのように貰った花束で私はCを叩きのめすが、所詮花束ぐらいで男をどうこう出来るはずもない。このアパートは大家は隣の戸建てに住んでいて高齢で耳も遠いし、アパートの者たちは皆、勤勉で早朝から仕事で留守だ。知っている限りの英語と中国語を駆使して拒否して暴れているところへ、職場で急遽、自宅に置いてあったハンコが必要になり戻って来たBが騒ぎに気付いて駆け付けて来た。後で知ったが京都の某有名大学を出たBは流暢な英語で怒りを言葉にして、ついにはCを部屋から叩きだした。この夜、BはAが帰宅するなりつかまえて「一体、あの男は何なんだ!?」と問い詰めた。Aは身長が190近くあるBに見下ろされながら「実はCが日本の国籍を欲しがっていて、たまさんと結婚したら日本国籍も取れてお宅の会社ともいい取引ができるって言っていて、先輩のDさんと相談して……」と、大映ドラマの脚本のような話を始めた。私とBは固まってしまった。Bは私の荷物を自分の部屋に移すと「俺がたまさんを預かるから。お前ら全員、たまさんに謝罪するまで俺は許さない!」と言った。翌日、Cは私を結婚詐欺で訴えると言っているとAは言ってきた。法学部出のBは鼻で笑った。すぐに大使館(だったと思う)と、私が帰宅後もトラブルと困るだろうからとこちらの総領事館にもCのやったこと全てを伝えてくれた。ドタバタのうち、私は自宅へ無事に戻れた。

ここまで書くとAは極悪人なのだろうが、どうもAはアスペのような何らかの障害があったと今なら思う。そう思うとここにも書けなかった全てに合点がいった。悪意はなく、Aなりに真剣にみんながよくなれる方法が私を差し出すことだったと理解できた時にはもうAはどこかに消えていた。

これがきっかけで私はBとつき合うようになった。と、言っても電話や手紙のやり取りだけで妙な関係もなく淡々と時は過ぎた。ある日、Bは私の親に結婚の挨拶に行きたいと言ってくれた。年末の飛行機の予約もしたと手紙に書かれていた。しかし、その日が近づくにつれてBの態度が微妙に変化してきた。千歳空港にBを出迎えに行って再会した時のBの何とも言えない表情だったことが今も忘れられない。札幌に向うバスの中でBは重い口を開き始めた。「自分の両親は京都で暮らしているんだけどね。その……北海道の女となんて結婚を絶対に認めないって言うんだよ。ほら、北海道に住む人って……こちら側にいられなくて北海道に逃げた人たちでしょう?そんな人たちと縁戚関係になるなんて冗談じゃないって」開いた口が塞がらないって体験をこの時、私は初めてした。「で、どうしても結婚するというなら今まで育ててやった大学までの養育費2000万をすぐに払えって。どうしよう2000万?」開いたままの口の中は乾燥してしまった。これもまたアスペだったのだろうと今は思う。毒母には何も伝えていなかったので(東京から友達が札幌へ遊びに来るから、しばらくつき合って外出するとは言ってあったが、相手の性別は毒母が勝手に女と決めつけてたので、こちらも余計なことは言わなかった)私のショック以外、被害は無かった。真剣に2000万を親に返そうとしているBを見て思わず言ってしまった。「あなたは契約の元に生まれて来たの?」私の問いにBは不思議そうな顔をして私を見た。「親があなたを産んだのは親の意思でしょう?で、これからお前を育てるが、今後は全てオプションでお前次第で将来、親に返す金額が加算されるからなんて親と契約した訳なのかって聞いてるの?」「子供がそんな大切なことを親と契約なんて法律的にある訳がないじゃないか」法学部出の知識らしきものがチラリと見える。「親が子育てして、後から金を回収するなんて私は聞いたことがないし、返還請求するなら契約がちゃんとされているはずだ」と言うとBは考え込んで無口になった。「親のその言葉を真剣に捉えて考えるってことは、今後も親が無理難題を突きつければ『それは違う』と言わず、悩み続けるんだろうね」と言うと、Bの表情は能面のようになった。

Bがホテルに滞在している間、外で話し合いを重ねたがやはり親へ金を返さなければと言い張って引かない。その時に知ったのだが、京都の大層な大学を出て蒲田の風呂無し、共同玄関・トイレの四畳半のアパートに住んでいた理由も、現在進行形で親に自分の養育費を毎月数万ずつ返していて、自室にトイレや風呂のある部屋を借りる余裕がないことを私はこの時、初めて聞かされた。「親は大切だよね。お金、ちゃんと返してあげようよ。で、親の認める人と結婚した方がいいね」って言うとBは顔を綻ばせて「そうだよね、やっぱりそうだよね」と言った。

Bが帰る前日に私たちは円山動物園へ行った。雪の中の真っ白な動物園をBは喜んで楽しそうに私と回った。最初で最後、互いに意識して手を繋いだ。今まで付き合った人の中で唯一、私よりもはるかに背が高くていつも見上げていた人だった。「京都も東京も冬は寒いけれど、こっちは寒さを超えて痛いんだね」「痛いくらいに寒いから、みんな恋人も夫婦も親子も友達も手を離さずにいるんだよ。誰かと寄り添い合うと寒さも和らぐし」Bにはこの言葉も額面通りにしか受け取れなかったらしい。この後、千歳空港まで見送りに行ったが、涙も出なかったしもう何の感慨も無くなっていた。皮肉を込めて「早くお金を返せるといいね」と言うと「自分の計算だと60歳までには返せると思うから、返したらまた会おうね」と真剣に返された。今、Bがどこでどうしているのか私にはわからないが、今も必死に親に金を返しているのかと思うと、失礼だが笑ってしまう。彼の顔も声も忘れてしまった。名字以外に覚えているのは、背が高くて真っ白な雪の中、動物園で手を繋いで歩いたことだけだ。

これを読んでいる人に問いたい。授かったわが子から「養育費」取るってあまりに馬鹿すぎやしないか?自分たちが望んで産んだ子なら、社会に出て通用するように育てるのが親の務めだろうが。話し合いもなく金でわが子の人生を縛り付けるなんて、親の資格って言うか、人としての資質がないだろう。

今も東京方面に行くと、極力私は蒲田駅あたりを通過しないルートを使う。(バスとか)でも、通るとやはり気になって思わず風景を見ずにはいられない。Aは風のうわさでその後、亡くなったと聞いた。婚約状態のままで。A自身、家族の縁が薄くて幸せな人生だったとは言えない人だった。このブログのどこかに書いたけど、某テレビ番組で霊能者が私に昔付き合っていた男の霊が憑いていて見守っていると言ったが、そのうちのひとりの風体(霊能者が言った)がAそっくりだったのは驚くと同時に笑った。「あなたを守護してますよ」って言ったが「お前、しっかり働けよ。さっぱり守護してねぇだろうがぁ!」最近、心の中でそう呟くことが多くなった。(笑)

結婚して今、私は亭主に食わせてもらっている。温かい部屋やPCを与えられて病院にも通わせてもらってる。ただ、亭主の手の温もりはもう、覚えてはいない。この人も自室で自分の時間が必要な人種なのだ。