今夢中になっていること ブログネタ:今夢中になっていること

冬休み終了目前、娘と雪の中、バスに揺られてチワワ奥のお宅へお邪魔した。その際にチワワ家の娘さんが挑戦していた「ピアノタイル2」に娘は興味を持ち、帰宅してすぐに自分のiPhoneにダウンロードをしてゲームを始めた。

これは黒いタイルが落ちてくるものをひたすらタッチしまくるゲームなのだが、この落ちるタイルを確実にミスなくタッチすると、ピアノ音でクラシック音楽が再現されることとなる娘のドツボにハマったゲームだった。成功すればポイントも加算されレベルも上がり、演奏出来る曲目も増える。ところが、これがまた難しい。最初はパッフェルベルのカノンなど心穏やかに遊べるのだが、成功すると難易度が上がり、ツェルニーやモーツアルト、リストにバッハと何でもアリになってくる。気付けば十六分音符など普通に壊れた蛇口から水が出る如く落ちてくる。娘はダウンロード後、楽しそうに挑戦し始めた。これが1月14日の夜だった。そんな娘の楽しそうな様子に「興味なんてないもんね」って顔をしていた私だったが、耳慣れた曲を聴くたびにだんだん興味を持って、自分のiPhoneにもダウンロードしてと頼んだのが18日夜だった。

考えるとメニエル病やら眼球がおかしな方向へ向いてしまっている自分には、最もふさわしくないゲームだと思う。しかし、15歳の小娘に負けるのが悔しくて私は家事よりもはるかにこのゲームに比重を置いて挑戦し始めた。で、今朝。(朝からだ)ついにレベル41を達成した。


取りあえず4時半に起きて弁当を作って娘を送り出し、自分の朝食の用意もしてある妻に朝っぱらからゲームをしていても亭主は何も言わなかったが、「バージョンアップしれくれ」とiPhoneを差し出したら「げっ、本当に41まで行ったんだぁ!?」と目をむいて驚いていた。更なる曲が楽しみだが……実はゲームを配信している側でまだ41以降の用意が出来ていないことがわかった。私はiPhoneを握ったままフリーズした。娘にこの画像を送ったら、「このババァ41まで行った」って思いを文字にせず微妙に祝いの言葉をくれた。このゲームのおかげでしばらくツェルニーとモーツアルトは聴きたくない気分だ。好きだったチャイコフスキーも今では「偉そうに肖像画してんじゃねぇ」って気分だ。(完全に八つ当たりである)

だが、面白いのは娘の遊び方だと思う。たぶん、こんな遊び方をしている人って世の中にいないと思ったので、今回はあえてこのネタを選んだのだが……

娘はピアノや電子オルガンなど鍵盤楽器を習ったことはない。強いて言えば小学校の時に学校でアコーディオンを任されたくらいだ。娘のタイルさばき(タッチの速さと正確さ)は目を見張るものがあった。目で黒いタイルを捉えた瞬間、指は譜面通りに(この場合はタイル)動いている。ワルツでもマーチでも四分音符でも十六分音符でも早くても遅くても食らいつく。数日して私はあることに気付いた。それは、娘は恐ろしいほどのアップテンポの曲をこなしながら、私と普通に会話をしていることだった。「うん」とか「そう」なんてものではなく、こちらの長い問いかけを聞いて、それに対してしっかりとした言葉で返答しているのだ。その間も手は間違えることなくタイルを叩いている。数日後、私は更に驚く光景を目にした。私のiPhoneをかりてこのゲームをしていたのだが、耳にはイヤホンをしている。ゲームの音がうるさいと気遣ってくれているのかと思ったら、そのイヤホンは自分のiPhoneに繋がっていて、NEWSの曲を聴きながらやってる。数日後には更に進化して、イヤホンを片側に入れてジャニーズの曲を聴きながら、空いた耳で私の言葉を聞いて返答と会話を成立させながらもタイルは落とさない。演奏している「ラ・カンパネラ」はちゃんと認識している。一体、こいつは何なんだ!?確かに常人じゃない脳構造だと改めて感じた。と、同時にあることを私は思いだしていた。

最近、ハマって撮り溜めしていた「宇宙兄弟」のアニメ。家事をしながら見るので、あまり捗って見られなかったが、その中に兄の飛行訓練のシーンがあって、計器を読んだり操縦したりと大きな作業をしている中、同乗している教官のじいさんが、やたらその場にそぐわない話をしてきて兄が困惑するシーンがあった。じいさん曰く、一つのことに集中するだけではダメで(宇宙飛行士の場合ね)真剣に何かをしながらでも、突発的な出来事が起きたら同時進行でそれらの事象を考え的確に行動しなければって訓練だった訳だけど、まさに娘がやっているのがそれに近い行為だった。「アンタさぁ、NASAの訓練と同じ事、やってるよ」と言ったが、宇宙兄弟なんて知らない娘は「あ゛っ!?」って状態だった。

我が家の子育ては始まりから異質だった。娘にはハンディキャップがあると告知されたが、私たち夫婦はむしろその告知があったからこそ、娘に型通りの子育てをすることはなかった。型がないってことは、自分たちで型を作れるってことでもあったのだ。

正直、子供は望んではいなかった。自分の健康問題があまりに大きかったから。毒親との関係にも疲れていて、自分が親になることに抵抗感も強かった。子供無しでいいやって10年ほどを夫婦で楽しんでもいたし。生まれたら生まれたで、授からなかったらそれなりに私たちは子供に振り回されることなく、笑って過ごしていたと思う。子供を授かった、授からないで自分を不幸だと言う人もいるけれど、その人たちって障害児を持つ確率について考えてないってのがほとんどだった。(あくまで私の生きてきた空間での話だが)障害児を「天使」なんて私は言えない。大変だよ、親も本人もさ。「天使」なんて呼んだところで何が変わるってんだろうな。生まれる前に障害児だって告知されていたら、正直生むことを考えたと思う。でも、そんなこと思う間もなく生まれて育て始めたら、「障害児だからいらない」なんて選択肢はすっ飛んだ。ってか、そんな選択肢を自問自答している暇さえ無くなってしまった。

母はたかがゲームであっても娘に白旗は安易にはあげない。(数学と英語は完敗だが)

いいか、お前は『天使』じゃない。人間なんだ。だから私はこれからも人間として扱う。そして、いつかはこのしょうもない母を超えて行け。自力で生きる術を身に着けろ。親なんて気にせず世界中、自分の安らぐ居場所を見つけてそこに住み着け。親の存在なんて忘れるくらい人生を謳歌しろ。親の存在を思いだして連絡したら、すでに親は死んでいたってくらい日々、楽しめ。そばにいて世話を焼かれるよりも、その方が親としては本望だ。

今夜もピアノタイル決戦だぞ。(笑)