結婚式で流してほしい(流した)曲は? ブログネタ:結婚式で流してほしい(流した)曲は?

とにかく人の期待を裏切るのが好きだった。思った通りになんて進みたくもなかったし。

結婚式での入場曲は『月の沙漠(砂漠じゃなく沙漠)』。きっと世界中探しても、この曲で入場した新郎新婦はいないだろうと思ってる。面倒なので今まで誰にも言わなかったんだけどね。実は……

この歌の最後の方に♪ふたりはどこへ いくのでしょう♪という歌詞があるのだけれど、実はこれ「月=あの世(死の国)」だったりする。昔の人、死んだら月に行くって思っていた人が多かったそうな。私が選曲した理由は、人生って駱駝が重い荷を背負いながら苦しい旅をするイメージしかなかった。そうした苦楽を共にして最期はふたりで月へと。月にも一緒に行けたら(一緒にそこまで一緒に歩めたら)って願望だった。亭主始め、他の来賓方もそこまでは追及することなく「何だか変わった曲選んだのね」って程度で済んだのが救いだった。

さて、今小説を書いているけれど、これを書くにあたって耳から離れない曲がある。もう、これを聴きながら小説を書いている状況。曲はメンデルスゾーンの『ベニスの舟唄』。
メンデルスゾーン『ベニスの舟唄』
彼は自分の作曲したものに名をつけることはあまりなかったという。標題をつけることによって、曲に対するイメージが固定されることを恐れ嫌ったとも言われている。そんな中、この曲は彼が名付けたものである。

私が書いている小説、もう少しで戦艦に乗りこみ散ることを覚悟して海原へ出でるシーンが登場する。でも、主役のふたりは、本当は互いの身体がくっ付きそうな小さな小舟で穏やかな波に揺られながら、ただただ静かに生きていたかったと、この曲を聴いているとイメージが沸々と湧いてくる。時に強い風に煽られ、小舟は翻弄されるけれど目の前には信頼できる人がいて、一方は揺れから庇い護ろうと、もう一方は救いを求めて手を差し伸べる……そんな情景が見えてたりします。

メンデルスゾーンは、こんな言葉を残しています。
『人は、音楽は曖昧だとこぼすが、言葉は理解する。しかし、私にしてみれば全く逆で、言葉は真に優れた音楽に比べれば曖昧で漠然としていて難解である。真に 優れた音楽は言葉よりも幾多のもので魂を満たしてくれる。私の愛する音楽は不明確で言葉に出来ないのではなく、反対に明確過ぎるのだ。もし、私の楽想が何 であるかと問われるなら、それは歌そのものだと答えよう』

話は何の脈略もなく変わるが……
昨年のこと。理科で遺伝の法則を勉強している娘からメンデルについての質問をされた。エンドウ豆の話で盛り上がったのだが、最後に
「メンデルは最期、何て言葉を残して亡くなったと思う?」
の、私からの問いかけに真剣に考えこんでいた。娘の脳裏には犬養毅の「話せばわかる」やら「もっと光を!」と叫んだゲーテの言葉が錯綜していたらしい。でも、ついに娘は白旗を上げた。
「え、メンデルの最期の言葉?そりゃ“豆はでん六”に決まってるじゃん」
娘は今でもスーパーやコンビニで『でん六豆』を見ると怒った顔をしている。

小説ですが、これは本当に私が勝手にちべた店長お願いして許可をもらって、勝手に書き始めたものです。私は自分で気に行ったブログに出向き、読んで納得・満足して「いいね」を押して来ます。それはつき合いなんてものではなく、自分の思いから。でも、小説に関してはどうかお気遣いなく無視してください。本人は義理ボタンに恐縮こそしていても、喜びはしないので。