Abyssus abyssum invocat.

喋れたらうれしい言語 ブログネタ:喋れたらうれしい言語

まずは……「喋れたらうれしい」は「喋ることができたら嬉しいと思う」の方が、修学途中の子どももいるんでいいのではないかと。私も誤字脱字が多くて、実はここにupしてから何度となく訂正しているんだよな。(苦笑)

憧れるのは、そしてそれを話せたらと思っているのは『ラテン語』。今回のタイトルはラテン語で『地獄は地獄を呼ぶ(一つの過失はもう一つの過失に結びつく)』という意味。奥深いです、本当に。ラテン語はバチカンでの公用語にもなっている。実は日本でもなじみがあったりしている。森鴎外の“ヰタ・セクスアリス”はラテン語でいうところの「vita sexualis(性的生活)」のことだったりする。時々、夢を見る。自分がラテン語を使いこなして、国境を無視して多くの人たちと様々な分野で議論を交わしている姿を。まぁ、そんなことがありえないから「夢」なんだが。ポリポリ……


娘の学校は英語教育に力を入れている。同じ年齢の頃、私はこんなにも単語も文法もマスターなどしてはいなかった。これは娘の障害ゆえの特徴とかではなく、小学生のころから努力してきた結果。家の中では幾分、偉そうにしていたが、その仮面を無残にはぎ取られることが昨年起きた。

さっぽろ雪まつり会場のフードコーナーで私たち母娘は試される大地の恵みを堪能していた。と、その時、台湾の方から声をかけられた。私が食べているものに興味を持って、「それはどこで買えるのか?」と聞いてきたのだ。買ったのはすぐ目の前の売店で、娘も知っている。私は娘に返事をさせようと合図をしたが、娘は何と腹をすかせた台湾の方を前にして、固まってしまった。自宅での教科書読みや学校での教師相手の英語はそこそこできたが、生きた教材?である英語を使う外国人に不意打ちを喰らうように話し掛けられた娘は心に準備もなく、簡単な単語さえ発することが出来なくなっていた。田舎の高校を出て、英会話は教師よりもウィッキーさんに教わった感が今も強い私は、身振り手振りで何とか答えを出した。娘は自信喪失をしていた。
「だって、急に話し掛けてくるんだもん!」
会話なんていつでもどこでもそんなもんじゃないのか?この日、娘の自尊心は少しそぎ落とされた。で、年末のこと。某所で中華系の家族が飲食店で席を探していたが、空きがなく困っていた。娘は携帯に夢中で困っている人の存在がわからずにいる。私はあれこれ席をやりくりして、どうにかその家族が一緒に座れる場を確保した。
「Pleas」
私の言葉に気付いた小さな子が瞬時に笑顔になった。兄たちにそれを伝え、四兄弟はそこへ座った。後で娘が
「そんな時には、もっと的確なすすめる言葉があったのに」
と、不満顔で言ったので
「どんなに素晴らしい文法を知っていても、英語の点数が満点でも困っている人に席をすすめることも出来ない英語じゃ意味ないじゃん」
娘は黙り込んだ。

様々な言語を操ることに、自分も憧れることが今も多々ある。けれども、そこに人を思いやる気持ちがなければ、それは言語とは言えない。ただの「知識」。

今年も私は娘を雪まつり会場へと引っ張りだす。生きた語学を駆使して、意思の疎通を図るために。

Aut disce aut discede.(学べ、さもなくば、去れ)
この言葉がキツイと思っているうちはまだ、子供なんだろうと私は思うな。

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ここからは小説の話題を。
ふたりのお別れがじわじわと近づいて来ています。生まれて初めて楽しい、嬉しい、愛おしいの感情を持った薫が、戦争によってすべてを失います。ただね……実は季節考証が途中で夏と冬入り混じっていました。途中で気づいて「ひぇ~っ!!」状態。どこかで修正かけないと。