ちょっと涼しくなったけどさみしい? ブログネタ:ちょっと涼しくなったけどさみしい?

私はさみしい 派!


生活が「普通」と呼ばれるものに戻って、亭主の深夜出勤と娘の早朝登校で久々にクラクラしたので横になった。起きてきて、昼用のパンを口に含み、温めの麦茶でそれを胃に流し込んで。いつも目の前で勉強していた娘がいなくて、あぁ夏が終わったんだなってやっと実感した。
今日も21度前後で毒母は寒いと長袖来て自室にこもっていて、窓はすべて閉められていて、心の中で「そろそろ灯油買わないとな」なんて考えていた。

何の脈略もなく昔話を投下。30年以上昔の毒母との体験。あまりに怖くて亭主にも娘にも誰にも封印していた話。毒母も以来、20年くらい前に一度、私とふたりの時に、当時を思い出しながら口にしただけ。


私と毒母は母子家庭として某田舎に住んでいた。(以降、身元特定を避けるために若干フェイクあり)
小学校を1年で中退して「おしん」のように奉公に出されたので、未だに自分の名前と現住所くらいしか漢字で書けない。考えれば毒母がここまで人格崩壊している一番要因は「知識と教養の欠如」だと思える。文字が読めないから、新聞や本などで知識を得られない。テレビやラジオ、そして誰かが口にした不安定で不確実な情報をも鵜呑みにしてしまうが故に、毒母なる存在が誕生してしまったのかも知れない。

こうして読み書き出来ない子連れの女が生きていくにはもう水商売しかなかった。この土地に流れ着いて最初は地元のキャバレー勤めをしていた毒母だったが、田舎であっても女がそこそこの数集まると、色々とあったらしく、対人関係に疲れ果て毒母はキャバレー勤めに終止符を打った。
その後、私たちが借りていた崩れそうな借家の近くに、老夫婦が経営していた借家の居酒屋があって、毒母は金を工面して、そこの権利を買い取り(当時20万だったと記憶している)、自宅兼居酒屋を一人で始めた。そこはあくまで借家であって、店や住居込みで月1万2千円と格安だった。(でも、恐ろしいほどにボロでもあった)知識がないと、怖いものがない。当時、中学生だった私でも、他人に飲食を提供するには保健所やら税務署などの対応をしなけりゃならないとビビるんだが、何もわからない毒母は中学生が部活を変えるくらい安易に店を始めた。まあ、その後、登校拒否児の私に税務署へ提出する書類や購入品の領収書の山を差し出され、中学生らしい勉強よりもいきなり実務をこなす羽目になってしまった。私がバカでも、土壇場で何とかなっているのは、こんなことを掻い潜ってきたからもあるのかもと思う。

店は元炭鉱町で閉山してかなりの年月を経ていて、その土地には炭鉱で働いていてそこで定年を迎えた老年と呼ばれる者が多く居住していた。店は流行ることもなく、私たち母娘が死なない程度に収入を与え続けていた。毒母はアルコールで肝臓と頭、精神を病んでいたが……

その土地は冬には当たり前のように氷点下20度くらいまで下がる所で、崩れかけた木造住宅は隙間だらけで、新聞やボロ布を隙間に突っ込んでも寒さはきつい。ストーブを使っている部屋の隅では物が凍えたりもしている。普通に暮らすために灯油や石炭を購入すると、とんでもない金額になって私たちは食材も買えなくなる。
遅い桜が咲き始めたある日、学校から戻ると毒母は近隣の爺さんから買い取ったという錆だらけのリヤカーを玄関前で磨いていた。もう、灯油を買うのは無理だから、ストーブを買い替えて何かを燃やして暖をとることにしたと言う。中学3年、ちょうど今の娘と同じ年齢で同じ時期だな。私は毒母とリヤカーをひいて馴染みの商店で木でできた廃棄予定の鮭の空き箱やら、様々な「燃えそうなもの」を回収して冬に備えた。正直、学校のジャージで土埃だらけになってゴミあさりの様なことを生きるためにしなければならないのは、娘心にも切ないものがあった。でも、私はそれまで本当に生きていて「嬉しい」とか「楽しい」なんてことがなかったので、貧乏に負けてこのまま死んでしまうことだけは避けたかった。どうしても「幸せだ」って心から思ってみたかったから、廃品を探しながらでも生きていた。
しかし、厳冬のこの土地で春まで暖をとる量を確保するのは難しい。毒母の無謀な計画はすぐさま頓挫した。そんな時、店に来た爺さんの一人が毒母に、
「線路を超えて山に行くと倒木がたくさんあるから、それを切り出して使えばいいんじゃないのか?」
と、アドバイスをしてくれた。翌日から私は朝3時に叩き起こされて、まだ暗い人の絶えた道を毒母と山目指してリヤカーをひき向かった。

片道1時間は掛った。舗装もされてないでこぼこで急な坂道を、行くときには空のリヤカーを必死にひいた。鬱蒼とした木々を抜けると、そこにはそう大きくも広くもない何かの施設があって、その施設を管理するために無人ではあったが、周囲は綺麗に草も抜かれ整地されていた。爺さんが教えてくれた通り、確かに倒木がゴロゴロしている。本来は国有林か市の山林だったのだろうけれど、生きるために朽ちた木をのこぎりで切りそろえリヤカーいっぱいに積んだ。そして、途轍もない重量のリヤカーで山道を女二人で降りることは命がけなのだと私は知った。何度も線路にリヤカーのタイヤが挟まって死にかけた。霧深い日、リヤカーがどうしても動かず、何か気配を察して死ぬ気で毒母と引っ張って線路外に出た瞬間、後ろを電車が走り抜けたこともあった。背中への電車の風圧を私は今も忘れない。

やっと、本題。
何年目かの春だった。朝6時にはリヤカーに切りそろえた薪を積んでリヤカーで山道を降りていた時、毒母が何気なく視線を動かすと、先に何やら空気の雰囲気が明らかに違うだろうというような場所に気付いた。普段は気を抜くとリヤカーに身体を持っていかれてしまうので、わき見もよそ見もしなかったが、この日(何年も通っていて)山の脇道に気づき、更にその先に何かがあると気づいた。リヤカーを放置できるほど道も広くはないので、私たちは満載されたリヤカーを引きながらそこへ足を踏み入れた。

そこは朽ちた墓地だった。

昔、炭鉱で栄えて墓地も普通にあったそうだが、閉山とともにこの土地を離れ、何かしらの事情もあって墓石や仏さんをそのままここへ置いて土地を去った人も多かったという。ちゃんと整備され供養されているだろうと思われる墓も確かにあったが、それは全体のうちの僅か片手で数えるほどの墓石しかなくて、それ以外は浸食され泥にまみれて、墓石も倒れ悲惨な状態だった。欧米の映画でゾンビや悪霊が出てくる情景のほうがまだ、ビジュアル的にも優しいと思えた。それだけインパクトのある恐ろしい光景であったのだ。私も毒母もその様子を前に言葉もなく固まった。その日は手を合わせ帰宅した。
翌日以降は雨で山には行けなかったが、毒母は何やらごそごそとしていた。やっと晴れた日、私は毒母とリヤカーをひいていつものように山へ向かった。ところが……毒母は山へは向かわず何と、リヤカーをあの墓地に向けた。毒母はポケットにヒマワリの種をたくさん入れていて
「こんな花もない所で、誰からも忘れられてかわいそうに」
と、墓に分け入りヒマワリの種をまき始めたのだ。
毒母も元は炭鉱マンの妻であり、私もこの土地ではなかったが生まれたのは炭鉱町だった。閉山後、こんな風に朽ちた墓を見て毒母には栄えていた頃の炭鉱町が見えていたのかも知れない。日本の発展を支えて昭和の後半には頑張ったことも、墓すら忘れられていたことが辛かったのだろうか。毒母は無言のままヒマワリの種を万遍なく蒔いた。

それから、すぐに別居していた実父がある病気で死にかけていると知らせが入って、まだ籍を抜いていなかった毒母は取りあえず実父の入院先に向かった。リヤカーでの薪拾いもこの日から長期休業となった。
で、ちょうど今頃だった。お盆も済んで私と毒母は色々な事から解放されて、やっと現実に戻り冬を考えまた、明け方3時にリヤカーを引いて山に向かった。順調に薪を作り積み込んでロープをかけて私たちは山を降りていた。もやがかかった朝、墓と山への分岐点へ来た時、「そういえばヒマワリってどうなったんだろう?」毒母が言った。そういえば色々なことがあって、私も毒母も種まき以降の墓地を知ることはなかった。
「見てこようか?」
毒母の言葉に私も頷いた。下山するまでそんなに感じなかった珍しいくらいの朝もやの中、足元を気にしながら墓の近くまで行くと、そこには一面、ヒマワリが咲き乱れていた。あまり日当たりが良くないので、太い幹に大輪という訳にはいかなかったが、朽ちて転がる墓石のあちらこちらからヒマワリが咲いていた。

と、その時。墓石とヒマワリしかないはずの視界に、何かが揺らぐのが見えたというか感じた。確かに。それが何だかわからないから恐怖も何もない。ただ、「朽ちた朝もやの出る墓地に何が動いているんだろう?」という疑問しかなくて、私は目を凝らして墓地を見続けた。
「……」
そこには人がいた。確かに人の形をした人がいた。それも目を凝らしていたら一人が二人、三人とだんだん増えてくる。しかも、その人らしき物体は確かに人と認識できるのだが、向こうの風景が透けて見えている。ゆっくりゆっくり動いている。立ち上がったり、黙ってこちらを見続けている者もいる。心霊番組であるようなおどろおどろしい風体ではなかった。透けている以外、普通の人間だった。でも、透けているから普通じゃない。見ているうちに蟻の巣からわらわら蟻が出てくるくらい、視界にその半透明の方々が蠢きだしていた。で、その半透明の方々はゆっくりと確実に私と毒母の方に近づいてき始めた。
恐怖もマックスに達すると声なんて出やしない。視線だけ毒母に向けると、毒母も顔がこわばっている。どうやら同じものを見ていることだけは確かだと確信を持てた。
「早くっ!!」
やっと大きな声を出せた私は毒母の腕を引っ張った。毒母も我に返って震えだしている。そんな時、命がけなんだから駆け足で逃げればいいものを、私たちは薪をそこに捨ててまで逃げるという発想はなく、恐怖で視界を涙で揺らせながらも、薪を満載したリヤカーを力いっぱい引いてそこから全速力で逃げ出した。後ろでリヤカーを押す毒母が心配で一度だけ振り返ったが、墓石あたりでその半透明の方たちは明らかにこちらへ来ようという意思を見せていた。
「急いで!絶対に振り返っちゃダメ!!」
そう叫びながら私たち母娘は最速記録を更新して自宅に着いた。
以降、私たちは山へ薪を取りに行かなくなったし、ましてや墓になど行くなど考えることもなくなった。その後、毒母が店で客に聞いた話では、やはり閉山で土地を捨てて出ていく者が多く、墓もそのまま放置され無縁仏化しているものが多いと知った。地元の者も、少し離れた場所に市が新たに墓地を造成したので、ほとんどの者がそちらへ移転したらしい。
「炭鉱の事故で旦那が死んじまって、残された奥さんが閉山と同時に旦那と同僚だった男とここも墓も捨てて出ていったなんて話、山ほどあるぞ」
墓はその墓石の数だけの理由で放置されているのかも知れない。以降、私と毒母はその話に一切、触れなくなった。その場にいて体験した者同士、話し出したらその話題で盛り上がるのは必至であり、あんな体験、少なくても私はもう話題にして毒母と盛り上がるもの嫌だった。日頃、話も価値観も合わない毒母も、この点では思いは一致していて、好きな心霊番組を見て騒いでいても、絶対にこの話だけは触れない。いや、一度だけ「ヒマワリが…」って話をしようとしていたな。ビビった私が席を立って、以降、してない。

その墓地は今も地図上は存在しているが、朽ちた墓石はそのままらしいと「ウワサ」だけは聞いた。Google Mapでそこを確認したが、相変わらず鬱蒼とした木々に囲まれ墓は僅かな片鱗すら見せることは今もない。けれども私はあの透けた方々が悪意を持って向かってきたとは、今も思えずにいる。

今年もそこにヒマワリは咲いているのだろうか。

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