1日、なにか辞めるとしたら? ブログネタ:1日、なにか辞めるとしたら?

『あぁ、めんどくさいなぁ…』
誰でも一度くらいは思うであろう食事の支度。
昨日、それができなくなってしまった。理由というか原因は鬱。

前日、亭主が主治医と面談してあれこれ話していたけれど、その時は自分でも驚くほどに元気があって、悩みもわずかだけど減りつつあって、状況的にはいい方向であったはずだった。が…
翌日、朝から頭から身体を押し付けられているかのように重くなり、しなければならないことがあるけれど身体が動かない。洗濯だけは4時間やっていた。不思議と洗濯だけは何とか出来た。
夕方4時を過ぎて、そろそろ晩御飯をと思いキッチンへ行くが何もできず立ち尽くす。
「あれ、私、どうしたんだ?何をしたらいいんだろう???」
よくわからぬままリビングに戻る。みんな自室にいてリビングには食事以外、私しかいない。いつもいつも…
10分ほど間を置いて、もう一度立ち上がってキッチンへ行く。しかし、事態は変わらない。そしてわからない、自分が何をしていいのかが。
「えっと、味噌汁作るんだっけ」
でも、何をどうしていいのかが本当にわからない。アホみたいな話だけれど、段取りが全くわからなくなっていた。リビングに戻ってまた、考える。今度は段取りを整理する。まず、これをして、次にこれをしてと。立ち上がってキッチンへ行くがやはり、指先さえ動かない。この後、私は20回以上、キッチンとリビングを往復することになる。気づけば午後7時を過ぎていた。こんなことをしていても、我が家は誰も気づくことはない。

自閉症の娘にアスペルガーの亭主。世間一般に「毒親」と呼ばれる実母は皆、個々に部屋を持ち夕食時になると出てくるが、それ以外は接することはあまりない。数週間前、鬱が一気に悪化した時もリビングで何時間も泣いていても誰も気づかず、気づいても面倒なので気づかないフリをする。
自分で限界を感じて何かにすがろうとしたが、その時、自分は縋るべきものが自分に何もなかったことにやっと気づいた。この日から数日後、私は専門医から薬を処方され、劇的に改善したと思っていたが、実はそれは「そう感じていただけ」だったと昨日、やっと気づいた。
亭主の部屋へ行った。
「あの…晩御飯の支度、したい…しようと、するんだけど…へんなんだ。晩御飯の作り方、わかんなくて…なに、したら…いいのか、わからない、どうしよう」
涙がボロボロと止まらない。言葉もそこで途切れた。途切れたと言うより、これ以上の説明ができない。ただならぬ私の様子に亭主はこの時点で初めてと言うかやっと私の異変を現実として理解できたようだった。
「大丈夫だから。一緒に作ろうか?」

思えばこの男も私を鬱に追い込んだ一人でもある。今更、何を言われても正直、もう有難くも嬉しくもなかった。安心させようと握られた手も、嫌悪感以外の何ものもない。有り合わせのもので何とか食事の支度は出来た。もう起きているのも嫌で、病院から貰っていた睡眠薬を飲んでさっさと眠った。

今朝、調べたら鬱の主婦が同じように食事の支度ができないという実例があると知った。気落ちしたり様々な鬱状態は今までも経験していたが、今回のようなことは初めてで正直、自分でも驚いている。

もしも身近に、そんな辛そうな人がいたら、どうか少しでも早く適切な医療機関へ行くように全力で働きかけてあげて欲しい。それが早計だったら後で笑い話でもいいじゃないか。でも、対処を遅らせればこれは確実に死人が出る。受診の是非は医師が判断することであり、身近な者が安易に決めることなどでは決してない。私が死ななかったのはバカらしいけれど、娘の弁当の心配があったからだ。私学で中高6年、弁当持ちで自分がいなければ困るだろうと思ったから。これから追い込みの卒業研究も親のアドバイスは必須だと学校側からアドバイスも受けていたし、弁当もその卒研をも無視して自分だけ逃げることがどうしてもできなかった、ただそれだけだった。娘が公立で、更には放任していたら自分は間違いなく10日以上前にこの世にはいなかったと断言する。障害のある娘が私を引き留めていた、ただ、それだけ。

昔、遥か昔。入院中に知り合った車いすの男性がいた。面白い人でいつも院内でたむろして騒いでいた。ある日、外出許可をもらって買い物に行きたいが付いてきてくれないかと頼まれた。一緒に出した外出許可証が通って私たちは街に出た。当時、車いすの者に対して街は冷たくトイレひとつ探すにも大変なことであった。
「ごめんな、プー」(当時、彼が私をそう呼んでいた)
「別に○○さんが悪い訳じゃないし、いいじゃん」
何かを飲もうとしても、何かを買おうとしても車いすは私たちの行く手を阻み続けた。病院に戻る頃、彼は落胆しきっていた。
「今に私が議員、いや、市長になって地下鉄もバスも店も全部“車いす専用”を作ってやるから待て」
私の言葉に彼は笑った。その後、互いに退院したが、リハビリでほぼ毎日、顔を合わせる日々だった。
「私ね、○○さんのことが好きなの」
入院中に知り合った自分よりわずか年上の女性から、私は突然告白された。彼女は彼が好きだという。彼女は優しくて私も好きだったし、この人と付き合ったら最高じゃないのかと勝手に思って「応援するから!」と宣言後、私は彼から付き合って欲しいと告白された。
彼が車いすなことが問題ではない。問題はすでに彼女から気持ちを聞かされていたことだった。彼女も様々な思惑があって私に伝えたのだろうと思うと返事に窮したが、私は悩んだ挙句、彼に断りの返事をした。
「そうだよな、車いすで無職じゃな」
違う、彼女に気持ちを聞かされていてとも言えず…車いすで無職に関しては否定しても彼は耳を傾けてはくれなかった。翌日、リハビリで会った彼が私にカセットテープをくれた。
「これさぁ、俺の好きな曲入ってるんだ」
「嬉しい!ありがとう」
何事もなかったかのように私は笑顔でそれを受け取った。それが彼との最後だった。
その後、彼は割腹自殺を果たし亡くなったとリハビリ仲間から聞かされた。理由は前途を悲観してだったそうだ。カセットテープには「聖母の宝石」「禁じられた遊び」「アルハンブラの思い出」「パガニーニの主題による狂詩曲大8番変奏」「バッハの平均律クラヴィーア曲プレリュード」などが収められていた。今も思う。自分も割腹した彼の傷口を素手で広げてしまった一人であるのだろうと。前途を悲観させた一人であろうと。自殺は当事者が行うことだが、後押しは誰でもできる。簡単なほどに。


今は全てがいい方向へ向かい始めている「はず」なのだが、どこに手を伸ばしても何にも触れなかったこの指先は全身に「もう身近な者は信じるな」と信号を送っている気さえしてならない。
こんな時ってむしろネットでの交友関係の方が気楽でよかったのかも知れない。前日にあれだけの消しゴムはんこを彫った人間が、翌日には味噌汁さえ作れないなんて今も妙な気分だ。

小さく小さく目標を立てる。明日は娘の夏の制服(ブラウス)を洗濯してアイロンがけして。明日はそれを目標に生きようと思う。

一日、辞めるとしたら何を?と問われれば正直、山ほどあった。
でも今は、辞めずに出来ることを探す自分がいる。

死にたいほど辛い人、もしいたらとりあえず小さな目標立ててみませんか?
明日、スーパーに行ってトマト1個買うでもいいし、夜、見たいドラマを見るでもいいの。難しい目標なんて必要ないの。今の自分たちにはそれすらしんどいことなんだから。
私の目標は明日、娘の弁当のキウイと柔軟仕上げ剤を買うこと。これを目標に生きる。必ず生きる。

何があったのかは、以降、ぼちぼちと。