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BLと呼ばれるジャンルでの小説を書き始めて3年半を超えた。自分をこの道へ引き込んだ人の作品があまりに緻密で、先の展開が全く読めない。それでも最後は広げた風呂敷をちゃんと畳み切るその技量に私は焦がれた。しかし、私が書くものに甘いものは少ない。当然のように読み手さんからは
「甘いものが読みたいです」
と、メッセージが来る。甘い?クリスマスだの、バレンタインだの野郎同志でどう甘くなるというんだ??同じようなリクエストを前に私は悩み始めた。けれども他の方たちはしっかりとそれを書き上げていた。それを読んで瞳ウルウルの自分がいた。悔しい……ぞ、と。

時は春。桜舞う季節にまつわる話を書き上げてみようと私はPCに向かった。悲しいかな、札幌の桜の開花は例年、ゴールデンウィークの終わりからで、私が生の桜を私が見るころに桜の話をupするのはあまりにも間抜けであった。いくつか桜にまつわる歌を聴いてみたが、(普段私は森山直太朗も福山も聴かない)私の胸に沁み込んで来た曲があった。それは、河口恭吾さんの『桜』だった。
聴きながら瞳を閉じる。甘く切ない歌詞に、自分が思う主人公たちが言葉を持ち動き出す。
「来たっ!」
エンドレスでこれを聴きながら、私はついに桜にまつわる話を書き終えた。主人公たちは最後、桜舞う中で幸せに微笑んだ。まさに、素晴らしい歌で救われた瞬間だった。今ではこの歌は私のカラオケでの選曲の一つにもなった。


『あなたのインスピレーションやイマジネーションを抑えてはならない。“模範”の奴隷にならないように』
Vincent van Gogh

私はこの言葉が大好きだ。底辺でひっそりと物書きをしていても、この言葉は私の心にぐっと迫る。
何故、このジャンルが日陰扱いされているのかが今も私にはわからない。いや、大っぴらに公開しろと言うのではない。芸術や文化とは、絶対的才能を持つ特定された者だけが作り出すものではないはずだ。マルキ・ド・サドの『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』も今では相当の評価を受け、文学史を語る上でサドの作品を外すなどあり得ないだろう。
どこぞの有名人の言葉ではないがまさに「嫌なら見なければいい」のだ。嫌だから、自分が受け入れられないものだから、徹底的に潰したり排除すると言うのは、ある意味、サドのいた時代よりも文学的には後退していると言わざるを得ないと私は思う。
現実に人を傷つけたり、殺めたりするのは絶対に許されることではない。けれども、想像という宇宙よりも無限に広がるものを持てたのは今の所、人間だけでありそれは素晴らしいものなのだ。人の意志で潰すなど絶対にあってはならない。
と、大義名分をぶつぶつと言いながら、私は今日もBL小説を書き続ける。
お待たせしている方、申し訳ありませんでした。何とか今日中に更新します。(心は完全に土下座モード)

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